第9話 夜襲
その夜、静岡の空は不気味なほど静まり返っていた。しかし、その静寂は、迫りくる嵐の前のわずかな休息に過ぎなかった。自衛隊特殊研究施設、通称「シールド」の周辺では、警備を固める自衛隊員たちの緊張感が、張り詰めた糸のように張り詰めていた。数日前からのロシアSVRの不穏な動きは、日本の情報機関に確実な「脅威」として認識されていたのだ。
佐伯優は官邸の執務室で、杉浦からの最新の報告を受けていた。
「SVRの工作員たちは、今夜にも行動を起こす可能性が高いと見ています。施設周辺での不審車両の増加、通信傍受への度重なる妨害……全てがその兆候です」
杉浦の声には、疲労だけでなく、切迫感が滲んでいた。報告書には、旧ソ連時代に実行された、在外公館への侵入や要人誘拐といった、強硬な作戦の事例が添付されていた。おそらく、手段は選ばれない。
「施設には、陸上自衛隊の特殊作戦群が追加配備されています。万全の態勢を敷いていますが、相手はプロ中のプロです。油断はできません」
佐伯は、三宅班長の顔を思い浮かべた。彼なら、この危機を乗り越えられるはずだ。しかし、ミリアの能力が予測不能である限り、万全などありえない。
「ミリアは……?」
佐伯の問いに、杉浦は首を振った。
「現時点では、彼女の異変は観測されていません。しかし、彼らの目的はミリアの身柄です。彼女に何らかの精神的ショックを与え、能力を暴発させる可能性も考慮すべきです」
佐伯の胸に、重い鉛が落ちたような感覚が走った。ミリアを、この狂気のような争いから守り抜くことができるのか。
同じ頃、「シールド」の内部。
三宅剛士班長は、コントロールルームで作戦指揮を執っていた。彼は、各所のモニターに映し出される施設内部と外部の監視カメラの映像、そして警備隊員からの報告に耳を傾けていた。彼の表情は、まるで岩のように固い。
「各ポイント、異常なし」
定期的な報告が続く中、三宅の脳裏には、主任研究員からの最新の解析データが浮かんでいた。ミリアの能力が「物質の再構成」、あるいは「時空間の歪曲」という、想像を絶するものであったという事実。そして、その暴発の引き金が、「深い孤独」や「絶望感」といった強い感情である可能性。
「隊員たちに告げろ。いかなる事態においても、澄原ミリアの安全を最優先せよ。そして、彼女に精神的な負荷を与えるような行動は、決して許されない」
三宅は、冷静に指示を出した。たとえ相手が命を奪いに来ようと、ミリアだけは無傷でなければならない。もしこちらに犠牲が出たり、SVRの一人でも殺害したりすることになれば、最悪の場合、第三次大戦の引き金になり得てしまう。それでも、だ。それが、日本政府から彼に課せられた、絶対の任務だった。
ミリアは、自分の部屋で眠りについていた。彼女は、ガラス越しに自分を監視する研究員たちの視線に、わずかながらも慣れ始めていた。ここが安全な場所であるという佐伯の言葉を信じ、夢の中に沈んでいた。しかし、その無垢な寝顔の下で、彼女の深層意識は、迫りくる危険を微かに察知しているかのように、時折、眉間に微かな皺を刻んでいた。
深夜2時17分。
「侵入者! 北西区画、フェンスを突破!」
突然、コントロールルームに、警備隊員からの緊急無線が飛び込んできた。モニターに映し出された映像には、武装した複数の影が、施設の外周フェンスを突破し、敷地内へと侵入する様子が捉えられていた。彼らは、通常の軍用装備ではなく、夜間に特化した特殊な暗視装置と、消音器付きの自動小銃を携行している。
「SVRだ!」
主任研究員が、反射的に叫んだ。彼らの動きは、これまで杉浦が分析してきたロシアの特殊部隊のそれと酷似していた。迅速、冷静、そして容赦がない。
「全隊、直ちに応戦! 殺傷を目的とせず、あくまで制圧を優先せよ!」
三宅は、怒鳴るような声で指示を出した。彼らの目的はミリアの確保であり、日本側は彼女を「生きたまま」守らなければならない。これが自衛隊員たちにとって、どれほど困難な戦いになるか、三宅は理解していた。
施設内部の警備隊員と侵入者との間で、静かな、しかし激しい銃撃戦が始まった。消音器付きの銃声が、乾いた音を立てて夜の闇に響く。赤外線暗視ゴーグル越しに見えるのは、互いの正確な射撃と、プロフェッショナルな動きだった。施設内部の警報が鳴り響き、緊急シャッターが次々と降下していく。
しかし、SVRの工作員たちは、施設の構造を熟知しているかのように、迷いなく奥へと進んでいく。彼らの目標は自衛隊員の殺害ではない。ただ一つ、澄原ミリアの確保だった。
施設内の一部で、突然、電力系統がダウンした。サイバー攻撃だ。
「西棟の電力供給が停止! 監視カメラ、扉のロックシステムに異常!」
コントロールルームがざわめいた。SVRは、物理的な侵入と同時に、サイバー攻撃を仕掛けてきたのだ。これは、訓練された軍事組織だけが可能な、高度な複合作戦だった。
「予備電源に切り替え! 手動でロックを維持しろ!」
三宅は、冷静さを保ちながら指示を出すが、彼の額には汗が滲んでいた。
その頃、官邸の佐伯もまた、状況をリアルタイムで把握していた。彼の前には、施設の警備状況を示すモニターと、部下からの報告が入る。
「西棟のシステムがダウンしました! 侵入者が、ミリアの収容されているブロックに接近しています!」
佐伯の心臓が激しく脈打った。最も懸念していた事態が、現実となったのだ。彼は、即座に官房長官へ報告を入れた。
「直ちに警察の特殊部隊を派遣せよ! そして、必要とあらば、自衛隊の増援も投入する。絶対にミリアを渡すな!」
官房長官の声には、焦燥と怒りが混じっていた。
施設内部。SVRの工作員の一団が、ついにミリアの収容されているブロックへと到達した。彼らは、ロックされた強化扉を爆破しようとC4爆弾を設置する。
その爆音で、ミリアは眠りから覚めた。轟音と、鳴り響く警報、そして外から聞こえる銃声。彼女の瞳は、恐怖に大きく見開かれた。
「いや……」
ミリアは、無意識のうちにベッドから身を起こし、部屋の隅へと後ずさった。全身が震え、涙が瞳に滲む。それは、旅客機事故の際に感じた「嫌な感じ」と酷似していた。彼女の精神的な負荷は、限界に近づいていた。
その瞬間、ミリアの部屋を監視する計器が、一斉に異常な警報音を発した。
「班長! ミリアの脳波とエネルギー波形が、急激に上昇しています! 臨界点に近づいています!」
主任研究員が叫んだ。モニターのグラフは、目に見える速度で急上昇していく。三宅はその波形が、旅客機事故の際の「爆発」の兆候であることを知っていた。
「駄目だ! 止めろ! 彼女を刺激するな!」
三宅は、自衛隊員たちに、爆破を阻止するよう叫んだ。しかし、既に爆破のカウントダウンは始まっていた。
「5……4……3……」
外では、SVRの工作員がニヤリと笑う。彼らは、ミリアの能力の起因を理解していなかった。ましてや、その発動条件が誰にも制御できないことなどは。
「2……1……」
その時、施設全体が、まるで巨大な生物が吠えるかのように、大きく揺れた。轟音とともに、ミリアの部屋の強化扉が、内部から爆発したのだ。
いや、爆発ではない。それは扉が、あたかも存在そのものを否定されたかのように、一瞬にして「消滅」したかのように見えた。金属の破片が飛散するでもなく、ただ空間が歪み、扉があった場所に、虚無のような穴が空いたのだ。
SVRの工作員たちは、その現象に度肝を抜かれた。彼らが仕掛けたC4爆弾は、まだ起爆していなかったのだ。
ミリアの部屋の中は、白く発光していた。ミリアの周囲の空間が、歪んでいるかのように見える。彼女は、恐怖に顔を歪ませ、両手で耳を塞ぎ、ただ「いやだ……」と繰り返していた。その瞳からは、とめどなく涙が流れ落ちていた。
「班長! 空間歪曲が発生しました!」
主任研究員が絶叫した。三宅は、スクリーン上の光景を呆然と見つめた。旅客機事故で把握していたはずの現象は、彼の認識を遥かに上回るような、現実離れしたおぞましさを呈していた。
SVRの工作員たちが、ミリアの部屋へ突入しようとする。だが、その直前、彼らの足元が、ぐにゃりと歪んだかのように見えた。次の瞬間、彼らの姿が、まるで幻影のように消えたのだ。
「消えた……!?」
三宅は、思わず声を上げた。SVRの工作員たちが、その場から完全に消失したのだ。彼らが立っていた床も、壁も、何一つ残っていない。そこには、ただ空間の歪みが残るのみだった。
それは、まるでブラックホールのように、全てを飲み込んだかのような現象だった。
数十秒後、コントロールルームに警報が鳴り響いた。
「班長! 施設外に、大規模なエネルギー反応を検知! 瞬間的に、東京湾上空で、例の爆発が……!?」
別のモニターに、東京湾上空に発生した、まばゆい白光の映像が映し出された。それは、旅客機事故の時と同じ、強烈な閃光と衝撃波だった。ミリアの感情の暴発が、SVRの工作員たちを巻き込み、遠く離れた空間で、再び大規模な「事故」を引き起こした。研究員たちの脳裏には、すぐさま推論が浮かんだ。
佐伯は、官邸のモニターに映し出された東京湾上空の爆発の映像を見て、その場に崩れ落ちた。
「ミリア……!」
それは、ロシアの強奪計画による直接的な物理的被害以上に、日本に、そして世界に、想像を絶する衝撃を与えるものだった。ミリアの能力は、既に予測不能なレベルに達しており、特定の感情のトリガーによって、無差別に大規模な破壊を引き起こすことが証明されてしまっていた。
「全自衛隊に警戒態勢を敷け! 東京湾周辺の被害状況を確認しろ! そして、施設からの一切の情報を、最高機密扱いにしろ!」
官房長官の怒鳴り声が、官邸の廊下に響き渡る。佐伯は頭を抱えて呆然としていた。この規模の爆発を隠し通すなど不可能なことは、誰しもが理解していた。
ミリアの部屋では、空間の歪みは収まり、白い光も消えていた。ミリアは、部屋の隅で、気を失って倒れていた。その顔には、恐怖と混乱の跡が色濃く残っていた。
三宅は、ミリアの元へと駆け寄った。彼女の体は無傷だ。しかし、彼女の能力が、他者の命を、そして空間をも歪める力を持っていることが、改めて残酷なまでに突きつけられた。
「これは……」
三宅の脳裏に、佐伯が語った「彼女は人間です」という言葉が蘇った。しかし、この力は、もはや「人間」が持ち得る範疇を超えていた。
東京湾上空での謎の爆発は、当然ながら、世界の主要国の偵察衛星によって瞬時に捉えられていた。それは、日本政府がミリアを「特異国防対象」として管理する能力があるのか、という疑念を、国際社会に決定的に植え付ける出来事となった。
世界は、ミリアの存在によって、新たな混沌へと突入したのだ。そして、その中心には、自らの能力を理解することなく、ただ恐怖に震える一人の少女がいた。日本の、そして世界の苦悩は、ここからが本番だった。