第8話 臨界へ
都会の喧騒から隔絶された、自衛隊特殊研究施設の地下深く。澄原ミリアの能力を解明するための研究は、停滞と進展の間で揺れ動いていた。日夜行われる検証実験は、その度に新たな謎を提し、研究チームを迷宮へと誘い込んでいく。しかしその過程で、彼女の力が持つ「無意識の危険性」は、次第に明確な輪郭を帯び始めていた。
三宅剛士班長は、実験室のコントロールルームで、大型モニターに映し出されるデータ群を凝視していた。そこには、ミリアの脳波、心拍数、そして周囲の空間に発生する微細なエネルギーの揺らぎが、複雑なグラフとなって表示されている。ミリア自身は、隣室で心理学研究員と談笑している。その穏やかな会話の裏で、計器は時折、不可解な変動を見せていた。
「班長、やはり予測不能です。感情の起伏とは連動していますが、その閾値も、エネルギーの放出パターンも、一定の法則が見出せません」
主任研究員の声には、焦りの色が滲んでいた。彼らはミリアの能力が「感情連動型の暴発現象」であることは突き止めた。しかしその暴発が、いつ、どのような感情の強さで引き起こされるのかが、全く読めない。まるで、精密な地雷原を歩くかのような危うさだった。
「先日、澄原さんが過去の記憶について思い出そうとした際、瞬間的に計測機器の電力系統に異常が発生しました。幸い、安全装置が作動しましたが、もう少しでシステムがダウンするところでした」
心理学研究員が報告する。ミリアが、意識的に能力を発動させているわけではないことは、明らかだった。むしろ、彼女は自分の能力に全く気づいていないか、自覚症状がない。その「無意識の力」こそが、最も恐ろしい要素だった。三宅は、ミリアが無邪気に笑う姿をモニター越しに見つめた。この無垢な少女が、いつ、どれほどの規模の破壊を引き起こすかも知れない。その事実は、彼の心に重くのしかかった。軍人として、彼は彼女を「脅威」として管理する責任があった。だが、一人の人間として、彼女の純粋さを知るにつれて、その葛藤は深まるばかりだった。
一方、日本の情報機関にも焦りがあった。G7閉幕後の各国からの圧力が、単なる外交的な駆け引きを超え、より具体的な行動に移り始めていることを察知していたのだ。特にロシア対外情報庁(SVR)の動きは、日本の警戒レベルを最大限に引き上げていた。彼らは、抑制装置の開発を待つことなく、ミリアの身柄を強奪しようと計画しているようだった。
内閣情報調査室の杉浦は、佐伯優の執務室に険しい表情で踏み込んできた。
「佐伯さん、SVRが、いよいよ本格的に動いたようです。カリーニン少佐と思しき人物が、日本国内のロシア系地下組織や、ルーマニア系の密入国ルートを使って、工作員を活発化させています。ターゲットは、間違いなく澄原ミリアの身柄でしょう」
杉浦が提示したのは、過去のデータと照合された、複数の不審な人物の顔写真だった。いずれも、過去に国際的な諜報活動に関与した経歴を持つ、危険なプロファイルを持つ者たちだ。彼らは綿密な計画の下、極秘医療施設への潜入ルートを探っていると見られた。
「彼らは、日本の警備体制を徹底的に分析しています。特に、サイバー攻撃による防衛システムの麻痺や、物理的な強行突入を想定した訓練の痕跡も見られます」
佐伯は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。 G7での日本の提案は、ロシアにとっては「時間稼ぎ」でしかなかったのだ。彼らは、ミリアの能力が持つ能力の可能性に固執し、それを自国のものとすることに、いかなる犠牲も厭わない覚悟でいた。
「警備は最大限に強化しているはずですが、足りませんか」
佐伯の言葉に、杉浦は首を振った。
「彼らは、我々の常識を超えた手段を講じてくるでしょう。過去のSVRの事例から見ても、彼らは目的のためなら手段を選ばない。おそらく、ミリアを捕らえ、強行的に本国へ連れ帰るつもりです」
杉浦の報告は、極秘医療施設の安全神話を打ち砕くものだった。日本の警備体制が、どれほど強固であろうと、各国の諜報機関が持つリソースと経験は、計り知れないものがある。特にロシアの冷徹な実行力は、常に日本の脅威であり続けていた。
「……何事も後手か。もどかしいものですね」
佐伯はそう言いながら、すぐに官房長官へ連絡を取った。官房長官の声は、疲労で掠れていたが、その中には強い決意が宿っていた。
「了解した。防衛省と警察庁には、改めて最大限の警戒態勢を指示する。三宅班長にも、厳重な注意を促せ。絶対にミリアの身柄を奪われてはならない」
官房長官は、ミリアの存在が、もはや日本の安全保障だけでなく、国際社会のパワーバランスを左右するほどの「戦略的兵器」と見なされていることを痛感していた。そしてその兵器が、今まさに奪われようとしているのだ。
その頃、極秘医療施設では、ミリアの能力解析が新たな局面を迎えていた。
三宅班長は、主任研究員から受け取った最新の分析データに息を呑んだ。
「班長、解析の結果、彼女の能力は単なるエネルギー放出ではありません。その本質は、『物質の量子レベルでの再構成』、あるいは『局所的な時空間の歪曲』に近い現象だと推測されます」
主任研究員は震える声で報告した。モニターに表示された波形は、旅客機事故の際に観測された、エネルギー放出の初期段階の波形に酷似していた。そして、その時のミリアの心理状態を示すデータには、「深い孤独」と「絶望感」の兆候が、より鮮明に記録されていた。
「澄原さんが、強い感情を抱けば抱くほど、この波形は臨界点に近づく……そして臨界点を超えた時、彼女の周囲の空間に、不可逆的な『歪み』が生じる可能性があります」
それは、単なる爆発以上の意味を持つ。空間そのものが変質し、時間さえも影響を受ける可能性を示唆していた。旅客機がレーダーから消失した12分間のタイムラグも、この「時空間の歪曲」によって引き起こされた可能性がある。爆発後に衛星が観測した波紋も、津波の発生ではなく、局所的な空間の歪みだったのかもしれない。
三宅は推測しながらも、ミリアが過去に発言した断片的な記憶を思い出した。誰かを傷つけたくないという彼女の言葉。そして、無意識に現れる、彼女の心を守ろうとする自己防衛的な感情。
「彼女は無意識のうちに、自分の力を抑制しようとしている……だが、その抑制が破られた時……」
それは、想像を絶する事態となるだろう。
三宅は、緊急で佐伯に連絡した。彼の声は、これまでにないほど緊迫していた。
「佐伯さん、至急、官房長官に伝えてください。ミリアの能力は、私たちが考えていた以上に危険です。単なる感情連動型の暴発現象ではない。その本質は、『時空間の歪曲』に関わるものだと結論づけました。抑制装置の開発は急務です。このままでは、いつどこで、大規模な『事故』が起きてもおかしくない」
佐伯は、三宅の言葉に背筋が凍りついた。それは、核兵器級の爆発以上に、世界を根底から揺るがす可能性を秘めている。
その夜、佐伯は極秘医療施設に急行した。ミリアは自分の部屋で、絵を描いていた。それは三宅に勧められた、「心を落ち着けるための方法」だった。色鉛筆で描かれた青空と、眼下に広がる青い海。しかし、その絵の中心には、なぜか白い円が描かれていた。
「佐伯さん……この白いの、なぜだか描いてしまって……」
ミリアは、困ったように佐伯を見上げた。佐伯はその点を見て、旅客機事故の後に発生した、大規模な爆発を思い起こした。感情を取り繕いながら、柔らかな声を返す。
「大丈夫です。綺麗な絵じゃないですか」
佐伯は、ミリアの手をそっと微笑みかけた。彼女の無垢な笑顔の裏に、人類がまだ知らぬ、途方もない力が潜んでいる。そして、その力が今、まさに世界の混沌の引き金になろうとしていた。
深夜。極秘医療施設の周辺では、不穏な動きが活発化していた。草木の陰に潜む複数の影、通信回線への不審なアクセス、そして、夜空を不自然に横切る小型ドローンの影。SVRの工作員たちが、いよいよミリアの奪取計画を実行に移そうとしていた。
日本の公安警察と自衛隊の監視網は、その動きを察知し、緊張状態にあった。いつ、どこで、その火蓋が切られるか。それは誰も予測できない、静かな戦いの夜だった。
佐伯は、自らの官邸の執務室で、夜遅くまで国際情勢の分析を続けていた。彼が持つ情報は、断片的なものに過ぎない。だが、その断片が示すのは、日本がミリアという「爆弾」を巡る、世界規模の強奪戦の渦中に巻き込まれつつあるという、厳然たる事実だった。
「間に合うのか……」
日本の提案が国際社会に受け入れられ、抑制装置が完成するまでの時間と、ロシアからの物理的な攻勢が始まるまでの時間。その二つを比較するたびに、焦りが募っていく。
ミリアはその夜も、極秘施設の一室で眠りについていた。彼女の無垢な寝顔の下には、世界を揺るがすほどの、計り知れない力が潜んでいる。そして、その力を巡る世界の暗闘は、まさに臨界へと向かいつつあった。