第7話 水面下の暗闘
G7サミットの熱狂は終わり、主要国の首脳たちは東京を後にした。メディアは共同声明や経済問題に関する議論を大きく報じたが、その裏で交わされたミリアの交渉については、一切触れられることはなかった。だが、外務省の佐伯優にとって、サミットの閉幕は新たな戦いの始まりに過ぎなかった。
日本の提案は、各国の間で様々な思惑を呼んでいた。それぞれの国が、日本の提案を自国の利益に引き寄せるべく、密かに動き始めていた。
外務省の佐伯の元には、連日、各国の外交官からの接触が続いていた。
「我々は日本の提案を支持する。だが、その抑制装置の技術協力は、我々米国が主導すべきだと考える。既に類似の研究を積み重ねてきた実績がある」
米国の大使館員は、まるで当然のことのように要求してきた。彼らは、抑制装置の開発を日米同盟の枠組みで行い、その過程でミリアの能力の秘密を完全に解明しようと目論んでいた。
ロシアからの接触は、G7に非公式会談さえ参加できなかった不満も相まって、より強硬なものだった。
「彼女は、我々のものであるべきだ。日本の提案など茶番に過ぎない。この件は、安保理で議題に上げるべきだ。国際社会の圧力を受ける前に、賢明な判断をするよう勧告する」
カリーニン少佐と思しき人物からの非公式なメッセージが、佐伯の元にも届けられていた。ロシアは、日本の提案を徹底的に潰し、ミリアの身柄を奪い取るための手段を模索していた。
ドイツからの要求は、日本の提案に最も近かったが、彼らは抑制装置の開発プロセスと、完成後の管理体制において、厳格な国際的管理と欧州の役割を強く主張してきた。テロ組織への流出を極度に警戒している彼らにとって、日本の「自由意思の尊重」という部分は、リスクに映っているようだった。
「日本の理想論は理解できる。しかし、現実とは乖離している」
あるドイツの外交官は、佐伯にそう言い放った。佐伯は、各国の論理が、いかに日本の提案を「ナイーブ」と見ているかを痛感せざるを得なかった。
一方、富士山麓の自衛隊特殊研究施設、通称「シールド」。
三宅剛士班長率いる「対非常特異事象班」は、ミリアの能力の詳細な解析と、抑制装置の基礎研究を急ピッチで進めていた。しかし、その研究は困難を極めていた。ミリアの能力は、既存の物理法則では説明しきれない部分が多すぎたのだ。
「班長、検出されるエネルギーの波形が、あまりにも不規則です。感情の起伏とは連動しているようですが、その振幅やタイミングは予測不能です」
主任研究員が、苛立ったように報告した。抑制装置の設計には、ミリアの能力が放出するエネルギーの正確な性質と、そのトリガーとなる感情のパターンを把握する必要がある。しかし、ミリアは自分の能力を自覚していないため、再現性のある実験を行うこと自体が困難だった。
ミリア自身は、自分の体が研究の対象となっていることに、依然として戸惑いを隠せないでいた。彼女は、研究員たちが自分を「宇宙人」を見るような目で観察していることに気づいていた。時折、検査中に身体の奥底から何かが熱くなるような、あるいは氷のように冷たくなるような感覚が走ることがあったが、それが何なのか、彼女には皆目見当がつかなかった。
三宅は、そんな彼女と積極的にコミュニケーションを図っていた。それは能力の暴走を防ぐという責任感と、一個人としての優しさによる行動だった。
ある日、三宅は、研究室でのストレスからか沈みがちなミリアを、施設の屋上にある小さな庭に連れ出した。そこは、外の世界とは隔絶されているものの、わずかながらも土と緑があった。
「澄原さん、ここなら少しは息抜きになるだろう」
三宅の言葉に、ミリアは小さく頷いた。彼女は、地面に咲く小さな花をじっと見つめていた。
「あの……私、やっぱり変なんですか?」
ミリアが、か細い声で尋ねた。三宅は彼女の隣に腰を下ろし、静かに答えた。
「変、ではない。ただ君は、人とは違う特別な力を持っている。それはとても大きな力だ」
「……私、その力で、みんなを……」
ミリアの瞳が、潤んだ。旅客機事故の記憶は曖昧でも、自分が大勢の命を奪ったかもしれないという罪悪感は、彼女の心を深く蝕んでいた。
「我々も、まだ全てを理解しているわけではない。だが、君の力は、意図せずして発動することがある。だからこそ、その力を安全に制御する方法を見つける必要があるんだ」
三宅は、抑制装置の開発について、具体的な技術的な説明は避けた。あくまで彼女の安全と、二度と誰かを傷つけないための手段であると伝えた。
「私が……役に立てるなら……」
ミリアは、絞り出すような声で言った。彼女のその純粋な言葉に、三宅の胸は締め付けられた。この少女は、自らが抱える途方もない力を理解せず、ただただ周囲に迷惑をかけたくない、という思いで協力しているのだ。軍人としての三宅は、彼女を「脅威」として認識しつつも、人間としての情が芽生え始めているのを感じていた。
日本の主要都市では、各国首脳が去った後も、静かな暗闘が続いていた。
米国中央情報局(CIA)のニコル・リーは、日本の防衛省や外務省関係者の動きを綿密に監視していた。彼女は、日本の「抑制装置開発」の動きを、米国の技術が主導する好機と捉え、情報収集のターゲットを、ミリアの能力解析データとその研究チームに移していた。
「日本の技術力では、あの力を完全に制御する装置の開発は不可能だ。我々の協力が不可欠だということを、彼らに理解させる必要がある」
リーは、日本の研究チームに接触し、共同研究を持ちかけるための準備を進めていた。その裏では、もし日本が協力を拒否した場合の「次の手段」も検討されていた。それは、ミリアを強制的に奪取することも辞さない、という冷徹な選択肢だった。
ロシア対外情報庁(SVR)のカリーニン少佐は、より大胆な行動に出始めていた。彼は、G7の喧騒が収まった今こそが好機だと判断し、極秘医療施設への潜入を企てていた。
「ティモフェイの最後の研究は、あの女の中に眠っている。それを手に入れれば、我々は世界をひっくり返せる」
カリーニンは、過去の因縁から、ミリアの能力がロシアの国益に絶対的に不可欠だと信じていた。彼は、日本国内に潜伏する工作員や、かつての旧ソ連協力者たちを動員し、施設への侵入ルートを探っていた。その動きは、日本の公安警察や情報機関に察知されつつあったが、カリーニンは巧妙な偽装工作で、追跡をかわし続けていた。
中国国家安全部(MSS)もまた、情報収集の網を広げていた。彼らは、日本の政府高官や研究者たちに接触し、ミリアの能力に関する情報を引き出そうと試みていた。ある幹部は、日本の技術者に対し、高額な報酬と引き換えに抑制装置開発の機密情報の提供を直接持ちかけていた。同時に、抑制装置の開発技術に関する情報も探っていた。
「日本の技術力だけでは、限界があるはずだ。もし、その技術を我々が掌握できれば……」
中国は、日本の提案を懐疑的に見ながらも、その技術が持つ戦略的価値を見逃すことはなかった。彼らは、日本の研究動向を探るため、サイバー攻撃の準備も進めていると見られた。
欧州刑事警察機構(EUROPOL)のエヴァ・マルティン情報官は、日本政府に対し、ミリアの過去の調査への協力を強く求めていた。彼女は、ミリアが旧ソ連時代の非人道的な人体実験に関わっていた可能性を疑っており、その真相を解明することが、欧州の安全保障、ひいてはミリア自身の未来を守る上で不可欠だと考えていた。
「過去に何があったのかを知らなければ、未来を制御することはできません」
エヴァは、佐伯にそう語りかけた。彼女の粘り強い要請は、佐伯の心に響くものがあった。しかし、容易にその提案に乗ることはできなかった。EUと手を組むということは、ミリアの独占を狙う米国の提案を蹴ることに他ならない。日米間の繊細なパワーバランスを崩すことに、首相はいい顔をしないだろう。
インド研究分析局(RAW)主任分析官のラージ・クマールは、日本の平和利用という提案に最も前向きな姿勢を見せつつも、同時に、抑制装置の技術が軍事転用されるリスクについても懸念を表明していた。彼は、この技術が特定国の手に渡ることを防ぐため、国連主導の国際協力枠組みを提唱し続けていた。
「この力は、人類の未来を左右する。だからこそ、特定の国益のために利用されてはならない。その技術は、人類全体で共有されるべきだ」
彼の言葉は、佐伯に、日本の提案の持つ本来の意味を再認識させた。
佐伯は官房長官から呼び出され、今後の対応について協議を行った。
「各国の動きは、ますます活発化している。特に、ロシアからの強硬な動きには警戒が必要だ。防衛省と警察庁には、最大限の警戒態勢を指示した」
官房長官の顔は、疲労でやつれているが、その目には強い意志が宿っていた。
「日本の提案は、あくまで各国の『良心』に訴えかけるものだ。だが、それだけでは通用しないことも理解している。佐伯君、君には、引き続き各国の思惑を読み解き、日本の国益と、ミリアの人間性を守るための交渉を続ける任務がある」
「承知いたしました」
佐伯は深く頭を下げた。彼の任務は、単なる外交交渉を超え、もはや命がけの情報戦へと変貌していた。
その日の深夜、佐伯は珍しく、三宅班長と共に、極秘医療施設内の警備状況を確認していた。施設の周囲には、武装した自衛隊員が厳重な警戒態勢を敷いている。しかし、佐伯の胸中には、漠然とした不安が渦巻いていた。
「三宅班長。この施設は、本当に安全なんでしょうか」
佐伯の問いに、三宅は静かに答えた。
「完璧な安全など存在しません。しかし……我々は、日本が持つ全ての力を動員して、彼女を守っています。そして、佐伯さん。あなたが『外交』という名の戦いを続けてくれることが、我々の守りをより強固にする。その連携こそが今の要です」
その言葉は、佐伯を少しだけ安心させたが、完全に不安を拭い去ることはできなかった。各国の諜報機関が、この施設に狙いを定めていることは明白だった。そして、ミリア自身の「無意識の暴発」という、予測不能な危険も常に存在している。
ミリアが眠る部屋の明かりが、わずかに漏れているのが見えた。彼女は、自分がどれほどの力を秘め、どれほどの脅威として世界に認識され、そしてどれほどの価値を巡る争いの中心にいるのかを、まだ知らない。その無垢な眠りが、佐伯には、世界の混沌の中で唯一守るべき希望のように思えた。
この静かな施設の中で、そして世界の表と裏で、ミリアを巡る激しい暗闘は、ますますその激しさを増していく。それは、人類が予測不能な力とどう向き合い、共存していくのかという、壮大な問いの始まりに過ぎなかった。