第5話 一筋の光
東京の空は、梅雨入り前の重い雲に覆われていた。それはまるで、日本が直面している国際情勢の不透明さを象徴しているかのようだった。G7首脳会議の開催が目前に迫り、各国首脳の来日に合わせて、澄原ミリアを巡る外交圧力が臨界点に達しつつあった。水面下で繰り広げられていた静かな情報戦は、もはや隠しきれないほどの激しい綱引きへと変貌していた。
外務省の佐伯優は、連日、睡眠時間を削って対応に当たっていた。彼のデスクには、各国から送られてくる文書だけでなく、非公式なルートで届く「メッセージ」が積み上げられていた。それは、友好的な提案から露骨な脅迫まで、多岐にわたるものだった。
米国からは、共同声明の草案が持ち込まれた。その内容は、ミリアの能力を「テロ対策」という名目で、日米同盟の枠組みにおいて共同管理するというものだった。
しかしその裏には、米国の軍事研究機関がミリアの能力を解析し、新たな兵器開発に転用しようとする思惑が透けて見えた。佐伯は、声明文のわずかな文言の変更の重大さを見抜き、慎重に修正を求めた。だが、米国の担当官の返答は冷徹だった。「これは提案ではない、要求だ」。
ロシアからは、カリーニン少佐が度々、非公式に接触を図ってきた。彼は、ミリアが日本の手には負えないことを述べ、ロシアの管理下に置かれるべきだと主張した。彼の真の狙いは、ミリアを自国の管理下に置き、その能力を再構築・兵器化することで、国際社会における影響力を回復・増大させることにある。佐伯はそう読んでいた。
中国の動きも活発だった。彼らは「極東地域の安定」を名目に、国連主導の国際管理を提案してきた。しかし、その交渉の場では常に、中国がその管理体制において主導的な役割を果たすべきだという主張が繰り返された。中国は、ミリアの能力が持つ戦略的価値を認識しており、将来的に中国主導の国際管理体制を築くことで、アジア太平洋地域での覇権を確立しようと目論んでいた。彼らの外交官は表面上は穏やかであった。だか、その言葉の端々には、一切の譲歩を許さない強固な意思が感じられた。
欧州連合からの要請は、ドイツとフランスが主導していた。EUROPOLのエヴァ・マルティン情報官が来日し、直接交渉の席に着いた。彼女は、欧州が直面するテロの脅威を具体的な数字と事例で示し、ミリアの能力がテロ組織の手に渡る可能性を強く危惧した。EUは、共同研究を通じてミリアの能力を解明し、最終的に無力化することを優先したいと考えていた。「この力は、人類にとってあまりにも危険です。共同で管理し、その危険性を排除すべき」。しかし、EUもまた、この共同研究を通じて国際的な信頼を構築し、欧州の外交的影響力を高める機会と捉えていた。エヴァの視線は鋭く、佐伯は、彼女の背後にある欧州各国の複雑な思惑を感じ取っていた。
そしてインド。ラージ・クマール主任分析官は、他の国々とは一線を画す提案をしてきた。「我々は、この能力を兵器としてではなく、人類の進歩のために活用する道を模索したい」。彼は、ミリアの能力が持つ膨大なエネルギーに注目し、核エネルギーに代わるクリーンエネルギー源としての研究開発に強い関心を示していた。彼の提案は、一見すると崇高な理想に思えたが、佐伯にはそれが、インドの国際的地位向上へのしたたかな戦略であることも理解できた。
佐伯は、これらの各国の要求と、日本が置かれている状況を整理していた。日本は、ミリアという「制御不能な力」を抱えている。そして、それを他国に引き渡すことは、その力が自国の脅威となる可能性を意味した。しかし、自国で管理し続ければ、それは国際社会からの非難と、国内でのテロのリスクを呼び込むだろう。そして何よりも、ミリア自身の力の暴発によって、日本が壊滅する可能性を背負うことになる。
「今までの駆け引きがマシに思えるとは……」
佐伯は杉浦に苦々しい愚痴をこぼしながら、重苦しい気持ちで、国家安全保障会議の追加招集を待っていた。
その日、首相官邸の地下にある国家安全保障会議室は、異常なまでの緊迫感に包まれていた。
内閣官房長官が、各国の最新の動きと、そこから読み取れる真の狙いを説明する。彼の言葉の一つ一つが、日本の置かれた窮状を浮き彫りにした。彼の報告が終わると、会議室は重い沈黙に包まれた。
最初に口を開いたのは、陸上幕僚長だった。彼は、自衛隊内の強硬派を代表する人物だった。
「彼女の能力が、我々の管理下にある限り、それは強力な抑止力となり得る。予測不能とはいえ、あの規模の力を国内に保持することは、国家防衛の切り札となり得るでしょう。他国に引き渡すなど、論外です」
彼の言葉には、日本の安全保障を自らの手で守るという強い意思が感じられた。
だが、外務大臣が即座に反論した。
「それは危険な賭けです! 彼女の能力は制御不能だと判明しています。もし国内で暴発すれば、日本は壊滅する。さらに、国際社会からの非難は避けられない。日本が『核兵器級の爆弾』を抱え込んだと見なされれば、国際的に孤立するどころか、経済制裁の対象にさえなりかねません!」
外務大臣は佐伯と同じく、国際協調を重視する協調派だった。
「予測不能な彼女の力を、国内に抱え込むリスクは計り知れない。人道的な視点からも、彼女を国際社会に開示し、共同で管理する体制を模索すべきです。それが、国際社会における日本の責任ある立場を示すことにも繋がります」
両者の意見は激しく対立し、会議室の空気は剣呑なものになっていった。佐伯は、その議論を聞きながら、自らの内面でも同じ葛藤が渦巻いているのを感じていた。ミリアを「人間」として守りたいという個人的な感情と、国家の安全保障という現実的な判断。その二つの間で、彼は引き裂かれそうになっていた。
……彼女を引き渡せば、その力が他国の軍事バランスを崩し、新たな紛争の火種になる可能性がある。それは、果たして『平和』と言えるのか?
佐伯は、会議で発言する機会は与えられなかったが、心の中で強く問いかけていた。どの選択肢を選んでも、日本には、そして世界には、大きなリスクが伴う。
内閣官房長官が、全員の意見を聞き終えると、重々しく口を開いた。
「我々は、ミリアを『所有』し続けることによる多大なリスクを理解している。国際社会からの非難、国内でのテロの標的化、そして何よりも、彼女自身の制御不能な暴発による国家の壊滅の可能性。しかし、同時に、彼女を安易に手放すこともできない」
彼の言葉は苦渋に満ちていた。
「この問題は、従来の外交や軍事の枠組みでは解決できない。我々は、これまで人類が経験したことのない、新たな脅威に直面している」
内閣官房長官は、各省庁の代表者に視線を巡らせた。
「そこで、政府としての方針を定める。我々は、澄原ミリアを『兵器』としてではなく、『人間』として扱うことを、国際社会に訴える。同時に、彼女がもたらすリスクを最小限に抑えるための新たな外交戦略を打ち出す」
佐伯は、官房長官の言葉に唾を呑んだ。新たな外交戦略。それは、この八方塞がりの状況を打開するための、唯一の希望かもしれない。
「その戦略とは……」
官房長官は、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「時間稼ぎに思われるかも知れないが……ミリアの能力を安全に制御するための『能力抑制装置』の開発を、各国に呼びかける。そして、その技術を国際的に共有すること。さらに、最終的にはミリア本人の自由意思に委ねる形での、国際的な管理体制を提案することだ」
会議室が、ざわめきに包まれた。それは、あまりにも大胆で、そしてリスキーな提案だった。自分たちで開発した技術を共有し、最終的には当事者である少女の意思を尊重する。それは、これまで各国がミリアを「力」として奪い合ってきた現状とは、全く異なるアプローチだった。
「それは、日本がミリアを『所有』するのではなく、『保護』し、その能力を国際的な平和に貢献させるという、リスクを伴うが倫理的な選択だ。彼らも近代国家である以上、人権尊重の建前を掲げられれば対応せざるを得ない」
官房長官の言葉は、覚悟に満ちていた。この戦略は、日本が国際社会において、単なる被災国や脅威の対象としてではなく、新たな倫理観と国際協調のリーダーシップを示すことを意味していた。それは、ミリアという「爆弾」を、人類が共存するための「希望」に変えようとする、壮大な試みだった。
佐伯は、官房長官の言葉に一筋の光明を見た気がした。ミリアを人間として守る、という自身の信念が、国家の戦略として打ち出されたのだ。しかし同時に、この道がどれほど困難であるかも理解していた。各国が、日本のこの「理想論」に、簡単には乗ってこないだろう。
その日の夜、佐伯は極秘医療施設にミリアを訪ねた。ミリアは、実験室での事故以来、どこか不安そうな表情を浮かべていることが多かった。
「佐伯さん、私、また何か変なことしちゃいましたか?」
ミリアは申し訳なさそうに尋ねた。佐伯は、彼女の目を優しげに見つめた。
「いいえ、澄原さんは何も悪くありません。あなたの持つ力は、とても大きなものなんです。私たちが、それを安全に使えるように今、一生懸命考えているところです」
佐伯は、抑制装置のことや、国際管理体制の提案については、まだ詳しく話せなかった。彼女を不安にさせたくなかったからだ。
「そうですか……」
ミリアは、佐伯の言葉に、少しだけ安心したような表情を見せた。佐伯は、彼女の純粋な瞳を見つめながら、改めて決意を固めた。
この少女を守る。そして、彼女の能力が、世界を破壊するためではなく、平和のために使われる未来を切り開く。それは外交官としての、そして一人の人間としての、佐伯優に課せられた、最も困難な使命だった。G7サミットという国際舞台で、日本はミリアの存在を巡る転換点に差し掛かる。その準備は、もう始まっていた。