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第3話 忍び寄る影

 ミリアの保護から数日。佐伯優は、外務省と極秘医療施設との間を行き来する日々を送っていた。胸中にあったのは、ミリアの記憶の曖昧さに対する疑問。そして、彼女の純粋な反応に触れたことによる、ある種の人間的な情動だった。彼女は途方もない力の犠牲者でありながら、数多くの命を奪った破壊者でもある。その矛盾が、佐伯の心を締め付けていた。


「佐伯さん、こちらへ」


 施設の一室で、佐伯は内閣情報調査室のベテラン分析官、杉浦に呼び止められた。彼の顔には疲労の色が濃い。


「各国の動きについて、どうにも違和感があります。外交ルートの照会は形式的なものがほとんどですが、裏ではとんでもない圧力がかかっています」


 杉浦が提示したのは、地図上に点々とマーキングされた、日本の主要都市を示す赤い印だった。都内の自衛隊施設や霞が関、そして静岡県内の港湾と、演習場の近郊。


「ここ数日、入国審査をすり抜けた不審な外国人が多数確認されています。特定国の人間ばかりではありません。国籍はバラバラですが、共通して高い情報活動能力を持つと見られる者たちです」


 杉浦は淡々と説明を続けた。彼の背後にある大型モニターには、監視カメラの映像や通信傍受のログが流れている。断片的な情報が線となり、具体的な絵を描き出し始めていた。


「我々の分析では、彼らは米国のCIA、ロシアのSVR、中国の国家安全部、そしてEUROPOL、インドのRAW……主要各国が、それぞれの目的を持って投入してきた工作員、あるいは情報官である可能性が高いでしょう」


 佐伯は息を呑んだ。それは宣戦布告なき、静かなる侵攻だった。各国は、既にミリアが「何か」であるという情報を掴んでいる。そして、その「何か」の価値を巡って、日本国内で水面下の情報戦を開始しているのだ。


 時を同じくして、都心の高級ホテルの一室。


 米国中央情報局(CIA)の工作員、ニコル・リーは、薄暗い部屋で一人、タブレット端末を操作していた。彼女の瞳は鋭く、獲物を狩る捕食者のそれだった。


「JAL802便の消失……そして爆発。ターゲットは間違いなく、あの旅客機に乗っていた。生存者、澄原ミリア。16歳。最優先で調査を頼む」


 彼女の耳元には、ワシントンからの指示を伝える音声が流れている。簡潔でかつ、容赦のない命令だった。


「日本政府は、まだ彼女の持つ可能性を完全に理解していない。彼らは彼女を『保護対象』として扱おうとしているが、それは間違いだ。彼女は兵器になり得る。あるいは、我々にとって新たな抑止力となり得る」


 米国、そしてリーは、ミリアの「特異性」について既に把握しつつあった。それはかつて、米国内で発生したある事件に酷似していた。制御不能な力は、世界を容易く崩壊させる。だが、それを掌握できたなら、それは絶対的な切り札となる。彼女の使命は、ミリアを日本政府の手から引き剥がし、米国の管理下に置くことだった。必要とあらば、手段は選ばない。


「アクセスルートは確保した。あとはタイミングだ」


 彼女の指が、タブレットの画面をなぞる。そこには、極秘医療施設の内部図面が表示されていた。


 一方、ロシア大使館の地下室。薄暗い一室で、ロシア対外情報庁(SVR)の少佐、カリーニンは、グラスを傾けながら古い写真を見ていた。写真には、若い男女と、小さな子供が写っている。男の顔は、ミリアにどこか似ていた。


「ティモフェイ……お前が関わっていたのか」


 カリーニンは低い声で呟いた。


「爆発のパターンは、あれに酷似している。まさか、あの時の研究が、こんな形で結実するとは」


 カリーニンは、ミリアがティモフェイらの研究の「最終生成物」であると確信していた。彼女が持つ能力は、通常の兵器では測り知れない。ロシアが失った国際的影響力を回復し、再び大国の地位を盤石にするための、まさに「神の杖」となり得る。


「日本政府は、あの女をいつまでも囲い込めると思っているのか? 甘すぎるな」


 カリーニンは、手元の衛星電話を取り出すと、短いロシア語で指示を出した。彼の指示は、日本国内に潜伏するロシア人工作員たちを、ミリアの確保へと向かわせるものだった。


 そして、中国大使館。国家安全部(MSS)の幹部たちは、慎重な会議を重ねていた。


「澄原ミリアの能力は、極東地域の安定に不可欠な要素となり得る。だが、それが米国の手に渡れば、アジア太平洋の軍事バランスは崩壊するだろう」


 彼らの議論は、常に「戦略的優位性」と「地域覇権」という視点から行われていた。ミリアの能力は、軍事面だけでなく、新たなエネルギー源としての可能性も秘めている。中国は、その両面からミリアの価値を測っていた。


「国連主導の国際管理を提案する。しかし、その主導権は我々が握る。まずは日本政府に、彼女の能力に関する詳細な情報開示を求めるべきだ」


 彼らは、表向きは平和的な国際協調を掲げながら、その裏では着々とミリアの能力を国益に取り込むための布石を打っていた。大使館の外では、中国人観光客に紛れて、情報収集を行う工作員たちの姿があった。彼らは、日本の防衛省や外務省の動きを監視し、ミリアの収容場所を特定しようと動いている。


 欧州刑事警察機構(EUROPOL)の情報官、エヴァ・マルティンは、東京のEU代表部のオフィスで、ルーマニア語の古いファイルを読み込んでいた。彼女もまたルーマニア出身であり、この事案への特別な使命感を持っていた。


 ファイルには、ソ連時代の機密文書に関する記述があった。それは、旧ソ連構成国内で極秘裏に行われていた、非人道的な人体実験の噂と結びついていた。欧州は、東欧情勢の不安定化に加えて、テロの脅威に常に晒されていた。もしミリアの能力がテロ組織の手に渡れば、欧州全土が壊滅的な打撃を受ける可能性がある。


「我々は、彼女の安全を確保し、同時にその能力を無力化するための共同研究を提案しなければならない」


 エヴァはEUの一員として、日本政府に対し、ミリアの能力を国際的な協力体制の下で管理するよう、強く訴える準備を進めていた。それは、欧州の安全保障を最優先する、冷静で現実的な提案だった。しかしその根底には、ミリアが人間として尊重されるべきだという、彼女自身の倫理観も存在していた。


 インド・研究分析局(RAW)主任分析官のラージ・クマールは、都内の静かな図書館で、日本の物理学の専門書を読み漁っていた。彼は、各国の軍事的な思惑とは一線を画しており、ミリアの能力が持つ「平和利用」の可能性に注目していた。


「このエネルギーは、核に代わるクリーンなエネルギー源となり得る。もし、これを人類のために活用できれば……」


 ラージはインドについて、主要大国間のパワーゲームに巻き込まれない、非同盟の立場を堅持すべきだと考えていた。同時に彼は、ミリアの能力を巡る争いが、新たな国際秩序の形成に繋がる可能性を感じ取っていた。彼は、国際的な協調を重視し、ミリアの能力を兵器としてではなく、人類全体の利益のために共有する枠組みを模索しようとしていた。その狙いは、インドが多極化する国際社会において、新たなリーダーシップを確立することにあった。


 日本の防衛省。佐伯は、杉浦がまとめた各国の情報活動に関する報告書を読み終え、深い溜息をついた。これは、外交問題の範疇を遥かに超えた、国家の存亡に関わる危機だ。


「これでは、日本は四面楚歌ではないですか」


 佐伯の声に、杉浦が応じる。


「すでに、水面下では激しい情報戦が展開されています。我々の監視網を掻い潜り、ミリアの収容施設を探ろうとする動きも確認されている」


 その時、内閣官房長官の秘書から、緊急の呼び出しが入った。国家安全保障会議の緊急招集が決定したのだ。議題は一つ、「澄原ミリアの処遇」についてだった。


 会議室に足を踏み入れた佐伯は、そこが既に戦場であることを理解した。陸上幕僚長、外務大臣、防衛大臣、内閣情報官、そして内閣官房長官。彼らの顔は、一様に硬く、緊張に満ちていた。


 内閣官房長官が重い口を開いた。


「先の旅客機事故と、それに続く太平洋上空での異常現象について、政府は極秘裏に調査を進めてきた。そして、その中心にいたのが、現在我々が保護している少女、澄原ミリアである可能性が高いと判断した」


 会議室に沈黙が落ちる。続く言葉は、日本が直面する未曾有の事態を明確に告げるものだった。


「各国は、すでに彼女の特異性を把握しており、それぞれの思惑から、彼女の身柄の引き渡し、あるいは国際管理を強く求めている。この状況を鑑み、政府は澄原ミリアを『特異国防対象』として扱うことを正式に決定した」


「特異国防対象」。それは国家の防衛上、極めて特殊かつ重大な脅威、あるいは戦略的価値を持つ存在を指す、極秘の分類だった。


「佐伯、君には引き続き、外交ルートを通じて各国の動向を探り、こちらの意図を正確に伝える任務がある。そして、三宅」


 内閣官房長官は、佐伯の隣に座る、厳つい顔つきの男に視線を向けた。陸上自衛隊の制服に身を包んだ男、三宅剛士陸曹長。彼こそが、ミリアの護衛と能力解析チームの現場責任者を務める「対非常特異事象班」の班長だった。


「三宅班長、君には澄原ミリアの安全を最優先に確保しつつ、その能力の全容を解明する任務がある。これは、日本国の安全保障に直結する。最善を尽くせ」


「了解しました」


 三宅は短く応じた。彼の瞳には、軍人としての覚悟と、未知の事態に立ち向かう冷静さが宿っていた。

 その後の会議は、激しい議論の応酬となった。


「彼女は無垢な被害者です。人道的な保護を訴えるべきでしょう!」


 声を荒げる外務大臣に対し、防衛大臣が反論する。


「しかし、予測不能な破壊能力を、国内に抱えるリスクは計り知れない。各国への引き渡し、あるいは国際管理に舵を切るべきだ」


 続く内閣官房長官の言葉は、その場の全員を凍り付かせた。


「彼女を日本が管理し続けることは、制御不能な核兵器級の爆弾を抱えるに等しい。国内でのテロの標的になる可能性も考慮すべきでしょう」


 議論は平行線を辿った。しかし、一つの認識だけは共有された。ミリアの存在は、日本にとって抱えきれないほどの重荷であると同時に、見過ごせないほどの価値を持つということ。そして、その彼女を狙う影が、既に日本の足元まで迫っているという厳然たる事実だった。


 佐伯は、会議室の喧騒の中で、ミリアの表情を思い出していた。思い詰めたような顔。あの無垢な笑み。彼女は、この激しい国際的な綱引きの中心にいることを、まだほとんど知らない。だが、その「知らない」ことこそが、最も恐ろしい爆弾なのかもしれない。佐伯は漠然と感じていた。日本は、この特異な少女と力を、どのように扱っていくべきなのか。その答えは、まだ誰も見つけられずにいた。

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