第2話 奇跡の生還者
太平洋のど真ん中で発見された少女、澄原ミリア。彼女は、海上自衛隊のヘリコプターで救助されると、そのまま空路で、富士山麓にある防衛省直轄の極秘医療施設へと搬送された。広大な演習場に隣接するその施設は、一見するとただの軍事研究施設に見える。しかしその実、日本の国家危機管理における最重要拠点の一つだった。地中深くへと続く厳重な二重のゲート、高解像度カメラと赤外線センサーが張り巡らされたフェンス、そして24時間体制で巡回する警備員。施設全体が重厚なセキュリティに守られていた。
到着後、ミリアは直ちに専門医による精密検査を受けた。だが、驚くべきことに、彼女の身体には外傷一つ見られなかった。爆発の衝撃はおろか、長時間洋上に漂っていた形跡もなく、肌は滑らかで、体温も正常。まるで、今しがた温かいベッドから起きてきたかのような、奇妙なまでの健康体だった。血液検査、画像診断、脳波測定に至るまで、あらゆるデータが「異常なし」を示す。それは、極限状態を生き抜いた人間のそれとは、あまりにもかけ離れた現実だった。
「本当に、あの旅客機に乗っていたのか?」
検査を担当した医師の一人が、思わず漏らした疑問は、居合わせた全ての関係者の心にあった。ミリアの存在そのものが、既成概念を覆す異物だった。
その日、外務省アジア大洋州局の佐伯優は、慌ただしく施設の一室へと呼ばれた。彼の部署が、旅客機事故の国際対応と、唯一の生存者であるミリアの身元確認を任されたのだ。佐伯はまだ若手だが、その明晰な頭脳と冷静な判断力は省内でも高く評価されていた。彼に課せられた任務は、ミリアの「真の正体」を探り、それが日本、ひいては国際社会に何をもたらすかを把握することだった。
佐伯が案内された部屋は、白と医療機器の無機質な色彩に満ちていた。ベッドに座るミリアは、支給された真新しい白いスウェットを着て、窓の外を見つめていた。陽光が差し込み、彼女の長い黒髪が僅かに輝く。16歳という年齢に相応しい、細身で華奢な印象だ。
佐伯は、医療スタッフの控え室で渡された資料に目を通していた。日本国籍だが、ある時を境に「行方不明」となっている。母親も同様で、父親に関しては記録がすっぽりと抜け落ちている。過去の足跡も曖昧で、特定の学校に通った記録もなければ、医療記録も極めて少ない。
だが、最も重要な点は、彼女があの爆心地から無傷で、まるで最初からそこに存在していたかのように発見されたことだった。航空自衛隊の情報部の報告によると、旅客機が消失した時点と、爆発発生地点、そしてミリアの発見地点が驚くほど近接している。通常の事故ではありえない、異次元の事態。政府上層部は既に、彼女を単なる被害者ではない「特異点」として認識し、この極秘施設への収容と、佐伯のような外交官の派遣を決定していたのだ。
「佐伯さん?」
医師に促され、佐伯はミリアのいる部屋へと足を踏み入れた。ミリアは佐伯の姿を認めると、琥珀色の瞳をわずかに見開いた。
「こんにちは、澄原さん。外務省の佐伯です。いくつかお話を聞かせていただけますか」
佐伯は穏やかな声で語りかけた。ミリアは少し戸惑った様子だったが、すぐに表情を和らげ、にこりと微笑んだ。その笑みは、緊張した空気の中に、わずかな温かさをもたらした。
「はい。でも私、あんまり頭は良くないので、上手く答えられないかもしれません。賢そうな言葉に直してくれると嬉しいです」
彼女の声は、どこかあどけなく、あっけらかんとしていた。佐伯は、この状況で冗談を言える楽天性に少し驚いた。彼女は自分が置かれた状況を、どこまで理解しているのか。あるいは、この異常な状況を理解しているがゆえに、あえてそう振る舞っているのか。佐伯の胸中に、様々な疑念が交錯した。
佐伯は慎重に問いかけた。旅客機のこと、その後のこと、爆発のこと。ミリアは、質問一つ一つに真摯に向き合った。
「飛行機の中の記憶は、ぼんやりと。その前は……何も思い出せません。機内では、窓から雲が見えて、それと、マッシュポテトが美味しかったこととか。あとは……すごく大切なことを、忘れてる気がします。そこから先のことも、なんだか霞がかかったみたいで……」
彼女は眉間にしわを寄せ、記憶を辿るように空を見上げた。
「次に気がついたら、海の上でした。なんで私がそこにいたのか、さっぱり分からなくて。夢を見ているみたいで……」
彼女の言葉には嘘偽りが感じられなかった。本当に覚えていないのだ、と佐伯は直感した。だが、最も重要な問いを避けて通ることはできない。
「澄原さん、あの旅客機が消失した時と、その直後に爆発がありました。その……爆発の、中心に澄原さんがいた、という情報があります。もし、もしそれが、澄原さんの、その……何かと関係しているのだとしたら…」
佐伯は言葉を選びながら、核心に触れた。ミリアの表情が、一瞬にして凍り付いた。彼女は琥珀色の瞳を伏せ、きゅっと唇を結んだ。その顔から、先程の明るさは完全に消え失せていた。そして、消え入りそうな声で、しかしはっきりと呟いた。
「覚えてないんです……ごめんなさい。でも、もし、もしそれが本当で、私のせいでみんなが……そうなってしまったのだとしたら……本当に、ごめんなさい」
ミリアの瞳の奥に、深い悲しみが揺らめいた。彼女の純粋な反応は、佐伯の胸に重く響いた。この少女は、自分が何者であるかを知らない。しかし、自分が大惨事の中心にいたかもしれないという事実に、純粋な責任を感じ、心を痛めている。佐伯は、彼女が感情を持つ人間であると強く感じた。
その純粋さが、かえって佐伯の心を締め付けた。この少女は、世界の何を知らずに、今、ここにいるのか。そして、この少女を巡って、これから何が起きるのか。佐伯は、目の前の少女が、世界の秩序を根底から揺るがす「鍵」になることを、この時はまだ明確には理解していなかった。