税務その五
私は藤村蘭子。近藤税理士事務所に勤務する会計人だ。とは言え、まだまだ修行中の身である。
先日、同僚の平井律子さんが突然退職願を出して辞めてしまった。
彼女はそれほどたくさんの関与先企業を抱えていた訳ではなかったのだけれど、仕事が苦痛になってしまったのだそうだ。
「人の財布の底まで見るような作業が、もうどうにも耐えられないんです」
それが彼女の退職理由。同意はできないけど、理解不能でもない。
平井さんの退職に伴い、彼女が巡回していた関与先の何軒かが、私に割り当てられた。私自身はそれほどギリギリの状態ではなかったので、
「もう二、三軒受け持てます」
と近藤所長に申し出て、軒数を増やしてもらった。まさかそれが原因で、あんな事になるとは夢にも思わなかったが。
「調査?」
私は出先から戻るなり、受付事務の宮野さんに告げられた。
「はい。先ほど、K税務署から電話がありました」
「どこのお客様かしら?」
私は自分の机に鞄を置きながら尋ねる。宮野さんはメモに目を落として、
「葛原商店様です」
「え?」
ギクッとした。そこはこの前平井さんから引き継いだ関与先だ。
「平井さんから引き継いだお客様ですよね?」
宮野さんが探るような目で私を見た。私は苦笑いをして、
「それも、所長に直訴して増やしてもらった中の一軒ね」
宮野さんは、まあ、という目をしてから、
「お茶入れますね」
と給湯室に歩き出す。
「ああ、宮野さん、お茶、いいわ。すぐに葛原さんのところに行ってみるから」
私はまず葛原商店に電話を入れ、調査の連絡があった事を伝えた。出たのは若奥さんだったが、別に慌てた様子もない。
「あと三十分ほどしたらお伺い致しますので」
私は一旦電話を切り、次にK税務署に電話する。すでに短縮ダイヤルに登録されているので手間要らずだ。
「宮野さん、税務署の担当の人の名前は?」
「光岡さんです」
「ありがとう」
宮野さんにお礼を言った次の瞬間、
「K税務署法人課税部門です」
と送話口の向こうから渋めの男の人の声がした。
「私、近藤税理士事務所の藤村と申します。光岡さんはお手すきですか?」
「光岡なら私です。葛原商店さんの件ですね?」
この人が調査官? 結構ベテランみたいね。
「はい。いつ頃を予定されていますか?」
「再来週の水曜日辺りは如何でしょう?」
私は手帳を広げて予定を確認する。
「私は大丈夫ですが、葛原さんの予定を確認しないといけません。先方に連絡して、もう一度お電話致します」
「わかりました、お待ちしています」
私は受話器を置き、つい溜息を吐いてしまった。
「はい、お茶です」
宮野さんがニコニコして私の専用マグカップを机に置いた。アールグレイのいい香りが鼻をくすぐる。
「あ、ありがとう」
結局、宮野さんの手を煩わせてしまった。マッタリしたくなるが、そうもいかない。
「ご馳走様」
私は楽しむ余裕もなく紅茶を飲み干すと、給湯室でカップを洗う。
「置いといてくれればいいですよ」
そう言ってくれる宮野さんに、
「大丈夫。このくらいはするから」
と答え、急ぎ足で鞄を持つと、玄関に向かう。
「行って来まーす」
「行ってらっしゃい」
宮野さんに見送られて、私は一度も行った事がない葛原商店に出かけた。
退職した平井さんを悪く言うつもりはないが、彼女は仕事がとにかく遅かった。勤め始めたのは、私より早いのに、いつの間にか私の方が関与先を多く抱えていた。先輩達も近藤所長も、平井さんを扱いかねていたというのが本当のところだろう。そのせいで、私はとても不安に駆られていた。
通常、法人の決算は担当者が行い、それを別の人間が精査する。ところが、平井さんの担当した関与先は、平井さんがルーズなせいでギリギリまで決算が終わらず、精査する間もないほどだったのだ。とりわけ、葛原商店は、ガソリンスタンドと雑貨屋を兼ねていたので、余計心配なのだ。
「まともな精査ができた事ないんだよなあ」
私は道すがら、そればかり気にしてしまった。先輩達の決算した関与先や、自分で全部チェックした法人は、何かあっても対応できる。でも、平井さんの「遺産」は、何が出て来るのか見当もつかず、もの凄く不安だ。くよくよ考えても仕方ない。調査前のチェックで、できるだけフォローをするしかない。半分、開き直る事にした。
「ごめん下さい」
私は葛原商店の隣にあるスタンドの事務所の方から入った。
「いらっしゃませ」
男性店員が、私をお客と思って近づく。
「近藤税理士事務所の藤村です」
「ああ」
その店員さんはすぐに奥に向かい、
「若奥さーん、税理士さんが見えましたよ」
と声をかける。事務所の奥が雑貨店舗と自宅のようだ。
「はーい」
若奥さんの声が聞こえた。店員さんは私に会釈して、外に出て行った。
「こんにちは」
若奥さんは、電話の感じよりずっと若い人だ。まだ、二十代ではないだろうか? 全体的に丸々としていて、愛らしい人だ。年上なのに失礼だけど、そんな印象を持った。
「社長は配達からもうすぐ戻りますから」
「はい」
私は出された丸椅子に腰を下ろし、事務所内を見渡す。車に乗らない私は、ガソリンスタンドと無縁だ。だから、いろいろなものに興味を惹かれた。
葛原商店は、先代の社長が亡くなり、その奥さんが跡を継ぎ、今私を出迎えてくれた若奥さんのお婿さんが修行中の身らしい。若奥さんは葛原社長の娘なのだ。経理全般は、この人が任されているようだが、決裁は全部社長がしている。近藤所長から聞いた話では、先代の社長も婿養子で、実質の経営は、今の社長が仕切っていたようだ。でなければ、社長の職に就いたりせず、娘婿に継がせているはずだ。
「あ、帰って来たみたいです」
若奥さんが外に出て行く。私は立ち上がって外を見た。ガラス窓の向こうに、威勢の良さそうな年配の女性が見えた。葛原社長だ。その向こうから、鞄を抱えて走って来る男性が、お婿さんだろう。
「初めまして、今度葛原商店さんを担当する事になりました、藤村です」
私は社長が中に入って来たのを見て、名刺を差し出した。
「聞いてますよ、神村塗装さんに。怖いんですってね、とても」
社長はにこやかに言った。私は苦笑いするしかない。神村塗装さんは、私が初めて単独で受け持った関与先だ。あの奥さんと知り合いだなんて、ちょっとバツが悪い。
「いらっしゃいませ」
お婿さんが若奥さんと共に入って来る。
「お世話になります」
私はお婿さんに会釈した。お婿さんはそのまま奥に行ってしまった。
「早苗、お茶」
社長はスッと丸椅子を出して腰かけた。
「はい」
若奥さんがテキパキと動く。さすが親子だ。
「税務署が来るんですってね」
社長は真顔になって私を見た。私は丸椅子に座り、
「はい。法人になってからは、初めてですか?」
「ええ、そうですね。ずっと赤字でしたからね」
社長は肩を竦めた。ガソリンスタンドは今、とても厳しい状況だ。前年度は灯油の売れ行きが好調で、黒字決算となったようである。
「この先、ハイブリットやら、電気自動車やらが流行り出したら、ガソリンスタンドは壊滅するかも知れません」
社長は深刻な顔で呟く。私は返す言葉がない。
「まあ、その時は電気スタンドを開業すればいいのかな?」
明るい社長だ。ホッとする。そこへ若奥さんがお茶を出してくれた。
「で、今日はどうされるんです?」
社長はとても低姿勢だ。神村塗装の奥さんは、私の事を何て言ったのだろう?
「一応、前三年分を調べられると思いますので、そのチェックをさせて下さい」
「わかりました」
社長は頷くや否や、
「早苗」
と若奥さんを見た。
「はい」
若奥さんはその声に応じて、奥へと歩いて行く。
「藤村さん、どうぞこちらへ」
「はい」
若奥さんの呼びかけに応じて、私は立ち上がった。
「私はいた方がいいかな?」
社長が尋ねる。私は社長を見て、
「お忙しければお出かけ下さい。どうしてもわからない事があれば、ご連絡致します」
「わかりました」
社長はニコッとして立ち上がり、事務所を出て行く。私はそれを見届けてから、奥へと歩き出した。
葛原商店は、創設当初は雑貨屋だけだった。元々ガソリンスタンドは、土地を貸していただけなのだ。何年かして、そのガソリンスタンドの店主が亡くなり、先代が引き継いだのだという。
私は自宅の客間に通されて出された座布団に正座した。ちょっとつらい。正座は苦手だ。
「この箱の中に全部入っているはずです」
若奥さんが、我が事務所が提供した証憑書類専用の段ボール箱を持って来た。
「あ、私も運びますよ」
正座しているよりはいいと思い、立ち上がる。
「あ、はい」
私は若奥さんについて行き、ダンボールを客間に運ぶのを手伝った。もの凄く重い。なのに若奥さんは軽々と運んでいる。
「重くないんですか?」
私は一個運んだだけで息切れしてしまった。
「私はこう見えて、力あるんですよ。子供の頃から、店の仕事を手伝ってますから」
ふと気づいたのだが、若奥さんは太っているのではないようだ。
「妊娠されてるんですよね?」
「ええ。再来月に出産予定です」
はあ。私はここまで頑張れるだろうか? その前に結婚相手か。
「ここにいた方がいいですか?」
若奥さんがにこやかな顔で尋ねて来た。
「大丈夫です。何かあればお呼びします」
「はい」
若奥さんは客間を出て行った。
「ふう」
ダンボールを見て、溜息を漏らす。平井さんは、何をしていたのだろうと。ダンボールの横には、事業年度が書き込めるようになっているのだが、どのダンボールにもそれが書かれていない。そして、中に入っている書類も書き込めるのだが、もちろんそれも一つも書いていない。
(中身のチェックも推して知るべし、か)
気が重くなった。調査に来られたら、アラがボロボロ出て来そうだ。只一つの拠り所は、あの社長の性格と、若奥さんの真面目そうなところ。平井さんがいい加減でも、元がしっかりしていれば問題ないだろう。そして私は、書類との格闘を始めた。
そして数時間後。
平井さんは逆の意味で期待を裏切ってくれた。彼女は仕事は遅かったが、正確だったようだ。間違いは見つからなかった。只一点、締め後の売掛金が漏れていたくらいで。
私はその他にある事に気づいたのだが、それを敢えて社長にも奥さんにも告げなかった。調査官の目を試そうと思ったのだ。大胆な発想だが、やってみようと思った。結果次第では、私は事務所を辞めなければならないかも知れない。それでもいいと思ったのだ。
更に時が過ぎて、調査日当日。
私は葛原商店の事務所にいた。社長は配達をお婿さんに任せて、調査官を今や遅しと待ち構えている。全然緊張と無縁の人らしい。豪胆な女性だ。それに加えて、その娘も凄い。若奥さんの方はほんわかした感じの性格に見えたのだが、やはり全く動じていない。肝が座っているのか、何も感じていないのかわからないが、あの社長の娘なのだから、肝が座っているのだろう。
やがて、税務署の人が姿を見せた。彼らは何故、遠くから見てもそれとわかる雰囲気を醸し出しているのだろう?
「K税務署法人課税部門の光岡です」
電話で応対した時は、もっと年配の人かと思ったけど、意外に若そうだ。三十代前半だろうか?
「近藤税理士事務所の藤村です」
私は、光岡さんの身分証を確認しながら、名刺を差し出す。
「葛原商店の葛原です」
社長は満面笑顔で名刺を出した。さすが商売人なのだろうか?
私達は客間に移動した。事務所には従業員も出入りするし、お客さんも来るからだ。
そして光岡さんはしばし雑談の後、社長の身上調査に入る。これは型通りなので、私は何も口を挟まない。
「では、帳簿類を見せていただけますか」
光岡さんは身上調査を早めに切り上げ、すぐに書類の確認に入る。調査は一日だけなので、ゆっくりしていられないのだろう。
普通、調査に当たっては、帳簿類は全部出しておいたりはしない。調査官が言うものだけを渡すのだ。そうすれば、見られたくないものがある場合、調査官のうっかりミスで見落としてくれるかも知れないからである。
しかし、今日の私はその定石を破っていた。あらかじめ、全部並べておいたのだ。これは賭けに近かった。もし、私の考え通りに光岡さんが帳簿を見てくれないと、とんでもない誤算になってしまうからだ。
「領収証を見せて下さい」
光岡さんは淡々と処理をして行く。時々メモを取るだけで、何も尋ねない。後でまとめて訊くつもりなのだろう。その方が好都合だが。
そして次に請求書を見始める。光岡さんがよほどの粗忽者でない限り、必ず「あれ」に気づくはず。私は確信していた。
「!」
思った通り、光岡さんは請求書に付箋紙を張った。そしてメモを取る。私は心の中で、
(第一段階終了)
と思った。そして、当然そこに気づけば、もう一つ確かめなければならないものがある事に気づくはず。商品の流れを追うために必須の作業だ。
「たな卸しの原表はありますか?」
商品のたな卸しを事業年度の締め日にリアルタイムでしたかどうかを確かめるのは、絶対に必要な事である。
「はい」
若奥さんが素早く対応する。光岡さんはそれを受け取ると、まずその信憑性を確かめるべく、書かれた字と、数える時に使用する「正」の字を吟味する。「正」があまりにもすんなりと奇麗に書かれていれば、それは後から机の上で作った「ニセ原表」の可能性がある訳だ。でもそれはあり得ない。紙のよれ具合や、汚れ、そして何種類もの筆跡で書かれているのを見れば、それが現場で記入された紛れもない「本物」である事がわかるはずだ。
「……」
光岡さんの電卓を叩く指が止まった。気づいたようだ。さっきの請求書との齟齬に。しかし、まだ確認作業は終了していない。
(第二段階終了)
私はまた心の中で思った。
「仕入の請求書を見せて下さい」
そうだ。取引先の請求書を見なければ、作業は完了しない。光岡さんは、取引先の請求書をチェックして行く。
「……」
再び、光岡さんの手が止まる。私は思わずニヤッとしてしまう。幸い、誰にも見られていない。
「どうしましたか?」
社長が声をかけた。しかし、光岡さんは呆然としていて、返事をしない。
「光岡さん?」
今度は私が声をかける。
「は?」
ようやく光岡さんは異世界から戻って来たようだ。その顔は、
「どうしよう?」
と書いてあるようだ。動揺がはっきりと見て取れる。
「何かありましたか?」
私はにこやかな顔をして尋ねた。光岡さんは目を瞬かせて、
「あ、いえ、その……」
と言うと、まるで何も見なかったように計算作業を再開した。
(勝った!)
私は光岡さんの様子を見て、勝利を確信した。
光岡さんは、その後しばらくあれこれ帳簿を見ていたが、
「大変正確な記帳をされているようですね」
などと言いながら立ち上がり、
「調査は終了します。お忙しいところ、ありがとうございました」
彼はまさしく逃げるように帰って行った。社長と若奥さんは、まさに狐につままれたような顔で私を見た。
「何があったんですか、藤村さん?」
私は笑いを堪えながら、
「平井さんが仕掛けた時限爆弾なんですよ」
と謎のような事を言った。
しばらくして、私は種明かしをした。
「平井さんが決算をした時、売掛金の締め後計上を忘れていたんです」
「そうですか」
社長は若奥さんと顔を見合わせて頷く。
「それだけなら、売上の計上漏れで、修正申告なのですが、平井さんはもう一つ爆弾を用意していました」
「はあ」
私は、自分だけが楽しんでいる事に気づき、
「申し訳ありません、勿体つけずにお話します」
と言い添えた。
締め後の売掛金とは、事業年度の最終日の売上を一度締めた後で追加があったりして、その後に起こされた売上の事である。普通は、決算の時、ここを漏らす事は稀である。
当然の如く、光岡さんは漏れに気づき、付箋紙を張った。そしてここで、売上に計上していないとしてもたな卸しに残っていれば、こちらは除外して計上させなければならないので、たな卸し原表を次に確認した。
更に光岡さんは、売上から漏れた商品が、締め後に仕入れたものの可能性がある事を考え、取引先の請求書も確認した。すると驚いた事に、売上が漏れていた商品ばかりでなく、それ以上の商品が仕入れ計上漏れになっていたのだ。これでは何のために調査に来たのかわからなくなる。
平井さんのダブルミスが、怪我の功名となったのだ。光岡さんは、私達が何も気づいていないと思い、何も告げずに帰ったのである。
「なるほど。マイナスとマイナスでプラスになったという事ね」
頭の回転が早い社長は、そう言って笑った。
「もちろん、あの時こちらから指摘する事もできたのですが、光岡さんに恥を掻かせても、怨まれるだけですので、知らないフリをしたんです」
私は最終的なネタ晴らしをした。
「それにしても」
若奥さんがお茶を入れ替えながら言う。
「怖い人ですね、藤村さんは」
私は苦笑いするだけだった。
こうして、何とか急場を凌いだ私は、意気揚々と事務所に帰った。
「どうでした、藤村さん?」
宮野さんは私の顔を見るなり尋ねた。
「大丈夫。無事、乗り切ったわ」
「おめでとうございます」
宮野さんは自分の事のように喜んでくれた。
しばらくして、近藤所長が帰所したので、報告した。
「そうか、申告是認だったか。良かったね、藤村さん」
私は所長に真相を話した。
「なるほど、平井さんのダブルミスが功を奏したのか。それは可哀相だったな、その調査官は」
「はい。気の毒だったので、何も気づいていないフリをしました」
「役者になれるよ、藤村さん。美人だから、主役だな」
所長は時々失言がある。私は笑って、
「それ、セクハラですよ、所長」
と言った。
「あはは、訴えないでくれよ、藤村さん。私はこう見えて恐妻家なんだから」
愉快な所長で楽しい職場だ。
でも、今回は運が良かっただけ。いつもこんな風に行くとは限らない。
調査官が気弱で、あまり機転が利かない人に当たりますように、と「税の神様」がいるなら願い事をしたかった。