去ってゆく人々
遥か西方の土地で突発的に起こった、数ヶ月にわたる激しい戦いが、ついに終わり、その結果のひとつとして、右腕に深い傷を負った、ひとりの兵士が敵国に捕えられた。
彼は山地に造られた敵陣の端にある、丸太で組まれた掘立て小屋の内部に監禁されることになった。あくまで建前ではあるが、両軍の間には、いかなる理由があっても、捕虜は雑には扱われない、という取り決めがあった。
その男は人間味のあるそんな規約の内容を知ってはいたが、敵兵士の温情に期待するつもりは、まったくなかった。戦場での鉄則として、敵に捕らえられた以上、いつ殺されても文句はいえないのだ。
その小屋の内部には最低限の日用品が揃えられており、数日間生きていく上では、特に不足はなかった。少なくとも、この時点までは男は味方の助けをひたすら待ち、生き延びてやろうという希望を持っていた。しかしながら、敵の司令官の機嫌次第では、男の命は今すぐにでも絶たれるかもしれないのだ。
恐怖と緊張に包まれた、平時には体験しがたい生活の中で、彼は退屈しのぎのために、黒檀の本棚から分厚い一冊を選び、読書に没頭することにした。その本には、没落していく悲運の女王を主役とした、感動的な物語が綴られており、囚われ身の彼には、いっそう共感できる作品であった。男は三日間をかけて、その長編作品を読み通した。彼は小屋の外で立番をしていた見張り兵に向けて、その書籍の尊敬できる作者について質問してみた。
「その本の作者はすでに過去の人物である。今から百年以上も前に病死。つまり、とうの昔にこの世を去っている。いったい、どのような人生を送った人物であったのか、今では誰の記憶にも残っていない」
そういうつれない返事が戻ってきた。自分が初めて尊敬した人はすでにこの世にいない。かけがえのない親友を失ったような感覚だった。男は軽い喪失感を覚えた。
男は戦いで負傷した腕の痛みを忘れるために、次に古典音楽のレコードを聴いてみた。自国ではその名を聞いたことのない作曲家の作品であった。それは素晴らしい音階と音色で奏でられていた。その旋律に身を委ねていると、男の病んだ心は、自然と落ち着きを取り戻すことができた。自分が落ち込んだ悲劇的な状況を、すっかり忘れられるような気さえした。男は再び見張り兵を呼び、その音楽家の生涯について尋ねてみた。どのような素晴らしい人格を持った人物ならば、あのような美しい音色を生み出せるのかを知りたかったのだ。
「その音楽を創った音楽家は、とうの昔に亡くなっている。今となっては、その生まれも活躍も死因も誰にも分からない。レコードの中の音色だけが現代に残ったのだ」
そういう冷徹な返事であった。男は再び深い失望を覚えた。
いつ頃からか、窓際には美しい女性のポートレートが飾られていた。男は暇になると、その写真立てを手に取って、彼女の姿を眺めるようになった。その可憐で繊細な表情からは、大いなる勇気をもらうことができた。その名も知れぬ女性に対して、いつしか幻のような恋をした。
食料や医薬品さえままならぬ劣悪な状況下でも、何週間も命を繋ぐことができた。しかし、右腕の裂傷の激しい痛みは、満足な治療を受けることができず、その頃には耐えがたいものになっていた。
あの美しい女性は、今どこにどうしているのだろうか? 彼女にひと目会うまでは生きていたい。その切なる願望に男の命は支えられていた。彼は最後の勇気を振り絞り、見張りの兵士を三たび呼び寄せ、写真の女性の素性について尋ねてみた。
「その女性はこの付近に居を構える一般人ではあるが、先日の貴国との戦闘において、攻め寄せてきた敵軍の兵士に銃殺された。惨殺されたその遺体は、すでに近くの墓地に埋葬されている」
見張り兵は冷酷な表情をまったく崩さぬままにそう答えた。さらに、男は彼女を殺害したのは自分の部隊の仕事であることを知らされた。
彼は時の流れという冷たい概念の在り方に絶望した。過去こそがすべてを備えた理想的世界であり、これから自分が生きる未来には、すっかり劣化したその残骸しか残されていないような思考に捉われた。未来とは決して希望ではなく、過去という目標の破壊された断片であると……。時の流れにより、この世界は否応なく劣化していくのだと……。やがて、彼は生きる希望のすべてを失っていった。
その数日後、両軍首脳による講和会議における成果として、大規模な捕虜交換が行われることになった。友軍の兵士たちが、負傷した捕虜のひとりを救助するために、その丸太小屋を尋ねてきた。小屋の内部には救いの手を待ちきれなかった、ひとりの兵士の自殺死体が転がっていた。
いったい、何が彼を殺したのかは定かではないが、運命は彼にそのような冷酷な結果を与えた。不運にもこの世から去っていく羽目になった人々を、それぞれの時間軸に残して、世界は今日も回っている。
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