三月 side.陽仁 [2]
母は精神科への入院を頑として認めず、話は退院の方向で進んでいった。
精神科の医師や看護師は難色を示していたが、問題がなさそうに見える僕を入院させておくほど救急病棟に余裕はないようだった。
抜糸も終わった。退院は明日だ。
退院したら、ここへ通うこと以外は、元の生活に戻らなければ。——大学へ、行かないと。
——卑怯者。
——研究者の面汚し。
——よく居座れるよな。
違う。ちがう。
浅い呼吸を繰り返す。もう何度目だろう。最近は少なかったのに。
ゆっくり息を吐いて、少し吸って、また吐く。過呼吸が収まっていくにつれて、冷静に戻っていく。
耐えようと思えば耐えられるはずなのに、勝手に思い出したくせに、過呼吸になる自分に嫌気が差す。気にしなければいいのに気にして、被害者ぶって、気落ちしたその勢いで自殺未遂なんて起こして。迷惑をかけた挙句、退院したくないなんて我儘が許されるはずがない。
そんな僕が、僕は大嫌いだ。
左の手首の内側、抜糸跡の少し下に親指の爪を食い込ませる。そうしていないと、自己嫌悪に押し潰されてしまいそうだった。
考えるのを止めればいいのに止められず、自ら堕ちていくくせに自分で浮上することもできない。この社会に適合していない僕には生きていく資格も必要もない。
右手に力を籠める。爪が更に食い込み、皮膚が破れる感触がした。痛みを感じたがそれでも全く気を紛らわせることはできず、否定感ばかりが募っていく。
すぐに逃げようとするのは怠惰で忍耐力がない証拠だ。自己否定さえ自分を憐れむための材料なんだから、たちが悪い。
右手をゆっくり離すと、左手首には薄っすら血が滲んでいた。
足りない。もっと痛みが欲しい。何も考えずに済むような痛みが。
そうしたらこの自己嫌悪だって許されるかもしれない。
ベッド脇の棚の抽斗の中、奥深くに仕舞っていたカッターを取り出し、刃を傷跡の近くに当てて滑らせた。
鋭い痛みと共に、薄く赤い線が走った。もう一度。今度は、もっと深く。
何度目かで、ぽたっ、とシーツの上に一滴血が落ちて、我に返った。
赤く染まったシーツを見て、罪悪感で指先が冷えていく。
見つからないうちに、 急いで洗わないと。とりあえず腕の血を洗い流して。
傷口を抑えながらトイレまで行き、手洗い場の蛇口の栓をひねろうとしたところで、手っていたカッターに気づく。後で水で洗おうと手洗い場の横に置き、水を出して手首を洗う。しかしどれだけ洗っても、次から次へ血が流れ出て止まる気配がなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
あ、と思い至ったときには遅かった。既視感のある虚脱感に襲われ、立っていられなくなる。
体が傾き、意識が遠のく。遠くで看護師が名前を呼ぶ声が聞こえたが、もう答えられる体力はなく、そのまま意識を失った。
気づくと、壁一面が真っ白な部屋に寝かされていた。八畳ほどの部屋にベッドだけが置かれている。窓すらない。
どこにいるのか分からず不安になったが、だんだんと意識がはっきりしてきて、倒れる前のことを思い出した。
おそらく、精神科病棟の保護室だろう。
両手両足と腰の辺りにベルトが巻きついている。きつくないので全く身動きが取れないほどではないが、ベッドから起き上がることはできない。
そんな状態なのに、一番に感じたのは安堵だった。
戻らなくて済む。当分、母さんにも会わなくていい。
とても、安心してしまった。
次いで、不安になった。精神科の先生にどう思われただろう。担当してくれていた看護師さんはどう思っただろう。桧凪に、なんて言えばいいんだろうか。
罪悪感でいっぱいになったそのとき、ノックの後に鍵の開く音がして担当医の藤木先生が入って来た。
いつもの穏やかな表情ではなく、厳しい目をしてベッドの横に立つ。
「意識が戻ったみたいですね。私が誰か分かりますか。意識を失う前の記憶はありますか」
はい、と頷くと、藤木医師は頷き返して言った。
「私が最初に診察したとき、既にだいぶ落ち着いているように見えたので、大切な話をしていませんでした」
先生は一度そこで切り、僕の目を見据えた。
「自分の命と身体を大事にしてください。あなたに何かあったら悲しむ人がいることを自覚してください。自傷行為や自殺未遂をしてしまいそうになったら、周囲にいる人誰でも構いません、相談してください」
相談、してもいいのだろうか。そんな、迷惑でしかないような相談を。
頷けずにいると、藤木医師はさらに強い口調で言った。
「それだけは、絶対に守ってください。分かりましたか?」
勢いに呑まれてはい、と答える。先生は頷いてから、頭を下げた。
「こちらも、あなたがそれほど追い詰められていることに気が付けなくてすみませんでした」
驚いて、首を振る。全部、僕が悪いことだ。今回も前回も、迷惑ばかりかけている。
「迷惑をかけてすみません」
そう返した僕に何を思ったのか、藤木医師は静かに首を振ると、そのままでは動きにくいと思いますので看護師に拘束帯を外してもらいます、と言って踵を返した。