三月 side.陽仁 [1]
「精神科病棟に入院?そんなこと認められないに決まっているじゃありませんか」
母が眉をひそめて担当医の先生にそう言うのを、申し訳なく思いながらも黙って聞き流す。
「ですが…」
「そもそも、精神科の治療なんて必要ありません。今回のことは少し誤ってしまっただけで、息子に精神的疾患があるわけではないんですから」
まだ蕾がつく気配すらない桜の枝を眺めながら、ふと赤くなった桧凪の耳を思い出す。今年は冬が遅かったから暖かくなるのも遅いのだろうか。そういえば、出退勤の前後に来るときはもう三月だというのに手袋をしていて、かなり寒そうだった。
「この子はどこもおかしくありません!」
母の怒鳴り声で、現実へと引き戻された。桧凪の代わりに担当看護師になった笹木さんが宥める。
「もちろん、廣中さんがおかしいなんて思っていませんよ。ただ、苦しいな、辛いなって思いを少しでも軽くするお手伝いをしたいんです」
「そんな手伝い必要ないと言ってるじゃないですか」
さっきよりは抑えているが興奮した声で母が言い返す。
「母さん、そんな言い方…」
重い空気に耐えかねて声をかけたが、母は厳しい目でこちらを見た。
「あなただって精神科に入院なんてしたくないでしょう!?」
強い口調で言われ、返す言葉に詰まる。
自分の話だというのに、どこか他人事で、どうでもいいと思っていた。
「……僕は……」
この半年が脳裏を掠めた。胃の辺りが締め付けられ、息が苦しくなる。
戻るのは嫌だ。
だけど、そんなことは言えない。
「少し考えたい、です」
僕の返答に母は目を吊り上げた。
「陽仁!何を考えることがあると言うの」
「ごめん。でも…」
「でも、じゃない。あなたは疲れてるだけよ。精神科の治療なんか必要ないわ」
「……」
咄嗟に口をついて出そうになった台詞を飲み込む。──僕の頭はもう十分おかしいよ。
「とにかく、私は認めませんから」
母の宣言に、説得は諦めたのか、藤木先生は頭を下げて笹木さんと共に病室を出て行った。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、時計に目を向ける。
十五時十分。今日は夜勤だと言っていたから、桧凪が来るならそろそろだろうけど、母がいたら遠慮するだろう。遠慮する、というよりは、避ける、の方が正しいかもしれない。中学の頃のことを考えると、母に桧凪の存在が知れたらただでは済まないだろうから。
「陽仁。何でこんなことをしたの」
「……」
どうせ言ったところで分かってくれないだろうし、と会話を諦めるのは悪い癖だ。分かっているのに、言うべき言葉が見つからない。
目を逸らして黙る僕に、母は溜息をついた。
「母さんは心配なのよ。悪いことは言わないから帰って来なさい。父さんだって心配してるわ」
心配、なんて言葉で僕を縛りつけないで欲しい。母さんたちが心配してるのは僕じゃなくて世間体だ。
本当に心配している人は、心配だなんて絶対に言わないで、気遣ってることを悟られないように気を遣う。
「何とか言ったらどうなの。昔からすぐ、都合の悪いことは黙ってやり過ごそうとするんだから」
それは、こういうときに母が僕の意見を聞き入れてくれたことなど一度もないからだ。主張したことには反論が返ってくる。黙っていれば否定はされない。
「帰って」
気づくと、冷たい声が零れ落ちていた。
「そうやって逃げてるから何も変わらないのよ」
母は一瞬驚いた顔をしたが、溜息をついて言った。
母の表情が厳しなったのには構わず、もう一度、今度はきっぱりと告げる。
「疲れたから、帰って」
横になって背を向ける。母は二言三言文句を言っていたが、やがて諦めて部屋を出て行った。
足音が遠ざかるのを確認してから、身を起こした。ベッド脇の棚の上、文庫本に手を伸ばす。
読書はあまり好きではないが、精神科の担当医に勧められて久しぶりに開いた本は、読みやすくて意外と面白い。以前読んだときとは感じ方が変わっていたり、前は気づかなかった伏線に気づいたり。読むのは二度目のはずなのに、何だか新鮮だった。
けれど今日は、目が文字の上を滑るばかりで内容が頭に入って来なかった。仕方なく栞を挟み、本を閉じる。棚の上に戻してから、枕をクッションにしてヘッドボードにもたれかかり、目を閉じた。
母はいつもああだ。あの人なりの愛情なのは分かっているし、育ててくれたことに感謝もしている。それでも、限度を知らない過干渉と子ども扱いで、たまに息が吸えなくなる。——苦しくても、根底にあるものが僕に対する愛情だからこそ、拒否しきれない。
立てた膝の下で腕を軽く組み、頭を伏せた。
なんで今生きているんだろう。なんで失敗したんだろう。
もうたくさんだ。いつか来る幸せなんていらないから、今の辛さを終わらせてほしい。
どうせ幸福を感じながらも、その後不幸になる恐怖からは逃れられないのだ。そんなの、幸せでも何でもない。
もう生きていたくない。
死ねば、全部、考えなくて済むんだから。
——死にたい。
駄目だ。頭に浮かんだ希死念慮を、打ち消す。
現実逃避をするための自殺企図が身についてしまっている。
それが悪いのは分かっているのに。
膝に額を押し付ける。左腕に爪を立てるが、痛いだけで希死念慮は消えてくれない。
血が滲む爪の痕を見て、もう一度爪を立てようとしたそのとき、ドアの向こうでノック音がした。
ハッとして、我に返った。
慌てて袖で傷を隠してから、はい、と声をかける。不自然に見えないように何気ない仕草で、右手で左の袖口を抑えた。
やや乱暴にドアを開けたのは、桧凪だった。少しの時間も惜しい、というように早足でベッドに近寄ってくる。
「どうしたの、そんなに急いで」
いつもと同じ表情と声のトーンを意識して、話す。
「着替えてるなんて珍しいね。それに時間ギリギリじゃない?」
桧凪は頷いて、間髪入れず尋ねた。
「大丈夫?」
その、心から不安そうな様子に、苦笑した。
「さっきの、聞いてた?」
そう訊き返すと、桧凪はバツが悪い表情になった。
「陽仁のお母さんが、怒ってるのだけ聞こえて」
「それでタイミングずらしてくれたのか」
ありがとう、ごめん、と謝ると、桧凪は首を横に振った。
「君が悪いわけじゃないもの。それより…」
不安気にこちらを覗き込む桧凪に、笑みを浮かべる。
「僕は大丈夫。心配してくれてありがとう」
上手に笑えているだろうか。これ以上、桧凪に迷惑はかけたくない。特に母のことでは。
「大丈夫じゃなかったら、ちゃんと言ってね?」
桧凪はまだ心配そうだったが、その言葉に僕が頷くと少し安心したようだった。
じゃあね、また、と言葉を交わして仕事に行く桧凪を見送り、ほっと一息つく。
再び文庫本に手を伸ばし開いたが、今度はもう、目が滑ることはなかった。