三月 side.桧凪 [2]
約二週間後。看護記録の記入が一段落し一息ついた深夜一時頃、内線が鳴った。
救急科からだ。受話器を持ち上げて、耳に当てる。
「はい、精神科です」
「救急です。藤木先生をお願いします」
少し待ってください、と言って保留ボタンを押し、デスクでパソコンに向かっていた藤木医師に呼びかける。
「藤木先生、救急科から内線です」
「わかりました」
藤木先生は頷き、受話器を取った。
「藤木です。……はい。……え?」
思わずといったような小さな戸惑いの声を洩らして目を見張る医師に、不穏な空気が漂う。
「……はい。わかりました。連絡ありがとうございます」
受話器を置いた藤木医師は、普段見ないような厳しい表情をしていた。
「笹木さんは」
表情と同じ厳しい声で問う。その様子に漠然とした不安を感じながらやや早口気味に答える。
「今、ラウンドに行ってます」
「そうですか。……」
藤木医師はそう言って黙り込んでしまった。尋常ではない空気感に何も言えず、しかし気になるのでそれとなくそちらを伺いながら物品の整理をする。
今、救急病棟に入院している患者で精神科が関わっているのは、陽仁だけ。そして、彼の担当は藤木医師と笹木さん。
そこまで考えて、頭を振った。運ばれてきた急患が藤木先生と笹木さんが担当している精神科外来の患者さんだったのかもしれない。ありえない話ではない。むしろ、その確率の方が高い。
それでも嫌な予感は消えず、仕事に集中しようと手を動かす。
程なく帰ってきた笹木さんとともに、藤木医師は面会室へ行った。
ややあって、笹木さんだけがナースステーションへ戻って来て、──私に向かって手招きをした。
嫌な予感が全身に広がっていく。何も考えないようにしながら、近くにいた看護師に声を掛け、笹木さんの後に付いて面会室へ向かう。
丸テーブルと椅子が四つあるだけの簡素な面会室の中で、藤木先生は椅子に座っていた。
「座って」
笹木さんは私に入口近くの椅子を勧め、面会室のドアを閉めると自分も私の隣に座った。
「これをあなたに伝えるのは公私混同になりますが、」
その断りで、陽仁のことだと確信した。思わず、手を固く握る。
しかし藤木医師が歯切れ悪く口にした言葉は、その覚悟を軽く超えてきた。
「廣中さんが、トイレの手洗い場で意識を失った状態で見つかりました」
比喩でなく、息が止まった。
全身が強ばる。
「命に別状はないそうです。が、橈骨動脈が切れていて、あと十分遅かったら危なかったそうです。近くにカッターが落ちていて水が出しっぱなしになっていた、と…」
説明する静かな声を聞きながら、徐々に冷静になっていく。
「……リストカット、ですか」
そう呟くと、笹木さんが頷いた。
「…恐らく」
目を瞑り、一つ、大きく息を吸う。息を吐いて、目を開き、握っていた手を開く。
「話せることなら、話します。できることなら、何でもします。なのでどうか、お願いします」
藤木先生の目を真っ直ぐ見て、頭を下げる。
「顔を上げてください。プライベートの話をするよう頼もうとしているこちら側が礼儀がないことは重々承知しています。それでももう、関係性を築いてから、なんて悠長なことを言っている時間がないんです。こんなふうになってしまって、本当にすみません」
いつもの落ち着いた声に、今は必死さが滲んでいた。むしろそれは、必死さを隠そうとしているような落ち着き方で。
少し安心すると同時に、申し訳なくなった。話せることなんて、ほとんどない。踏み込んだら二度と心を開いてくれなさそうで、怖くて、何も訊けなかった。──訊こうともしなかった。
「これから、はると――廣中さんは、どうなりますか」
「ひとまずは救急科で診てもらうことになりますが、容態が落ち着き次第、精神科に。閉鎖病棟での入院になります。……随分勝手なことを言っているのは分かっていますが、お見舞いに行くのは私が許可するまで、控えてもらえますか?」
「はい。…緊急措置入院ですか?」
私の問いに、笹木さんと藤木医師は顔を曇らせて頷いた。
緊急措置入院、とは、精神科において、自傷・他傷してしまう可能性がある患者さんを、一時的に入院させる入院形態だ。この方法で入院できるのは七十二時間までと決まっていて、基本的にはこの間に、本人もしくは家族の同意を得て入院してもらう「任意入院」や「医療保護入院」を目指す。
ただ。
「やっぱり、廣中さんのお母様にご理解いただくのは難しいと思う?」
やっぱり、ということは二人もそう思っているのだろう。首肯して、付け足す。
「そう思います。父の方も仕事で忙しいそうなので、医療保護入院は難しいかと。それよりは…」
「任意入院?」
「はい。その、憶測になってしまいますが、今回自殺未遂を起こした原因…きっかけ、は、退院や転科の話が出たことだと思うんです」
言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
「それで…多分、家には帰りたくない、と思うんです。一種の自己防衛なのかな。家に帰ってから、あのお母さんに何を言われるか分からない恐怖心、みたいなものがあると思うので」
だからその、えっと、と言葉に詰まった私の後を、藤木先生が引き継ぐ。
「それなら、事情を説明すれば承諾を得られるかもしませんね」
はい、と大きく頷く。
「他に、何か気付いたことはありませんでしたか?些細なことでも、曖昧なことでも構わないので教えていただければ」
「人と会うのを怖がっているようでした。毎回、ノックに応える声が硬かったような気がします。後は、過去には触れて欲しくない、という意識も強かったです。それ以外は、特には」
そう話すと藤木医師は少し考え込んでから頷いた。
「ありがとうございます。これからも何か気付いたら話せることだけでも教えてください」
長くなってしまいすみません、仕事に戻りましょうと藤木医師が促すのに従って立ち上がる。
ナースステーションへ歩き出しながら、心の内は後悔と不甲斐なさでいっぱいだった。