表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君は、  作者: 千草色
5/21

二月 side.陽仁 [2]

 その年の春期講習から入塾した生徒は一人だった。

 浜名桧凪。

 小学校は違ったが四月からは同じ中学なので、警戒しつつ様子を(うかが)っていた。

 第一印象は、真面目で大人しそうな子。だがそんな感想はすぐ、「真面目だが気が強くて少し毒舌な、どちらかと言うと苦手なタイプ」に変わった。──天敵とも言える相場美鈴と仲良くしている時点で、僕にとっては敵も同然だった。

 そんな彼女が六月に入ってから、一人になった。相場の機嫌を損ねたのだろうと思っていると、案の定、相場とそのグループの女子たちが頼んでもないのに悪評を話してくれた。嫌いなはずの僕に話しかけてくるということは、余程彼女を孤立させたいのだろう。そう考えると(あわ)れだ。

 とはいえ、自分の席で音楽を聴きながら本を読んだり勉強したりしている様子は辛そうには見えないし、むしろ縁が切れてさっぱりしているようにも見える。

 同情はしたが、巻き込まれるのも嫌なので助ける気は全くなかった。

 それなのに。

「餌やりしたいんだけど、いい?」

 水槽の前にかがんで魚を見つめている彼女が、あまりにも(はかな)げな憂いの表情を浮かべていたから、つい、声をかけてしまった。

 常に肉食獣に怯えている小動物のように、彼女はパッと振り向いた。警戒しているのがわかりやすい、硬い表情。その表情に、思い出したくもない過去の声が耳の奥で響いた。

 ──五年にもなってマザコンとか、だせぇ!

 ──こっち来んなよ、マザコン菌が伝染(うつ)るだろ。

 ──ママに言って守ってもらえば?

 ──キモイ。

 ──近寄らないで。

 嘲笑、冷笑、軽蔑、嫌悪。半数はただ見て見ぬふりをしているだけなのに、クラス中が敵になったような錯覚に陥る、あの感覚。

 思い出すだけで足が竦みそうになるのを、目を閉じて息を吸い、堪える。

 水槽のエアレーションだけが聞こえるようになってから目を開くと、警戒しながら不安げにこちらを見る彼女と目が合った。

 普通の中一が入って早々孤立して、噂を流されて、辛くないはずがない。あの態度は彼女の精一杯の強がりだったのに、そんなことは考えもせず関わろうとすらしなかった僕も、彼女からすれば加害者同然で。

 僕も大概最低だな。

 胸中に渦巻く自己嫌悪を悟られないように、場所を空けてくれた水槽の前に立ち、餌が入った箱を開いた。

 餌を三粒落とした後で、思い至った。

「やりたかった?」

 そう訊くと彼女は少し困ったように眉根を寄せ、曖昧に首を傾けた。

 答えになっていないリアクションに、思わず吹き出す。

「じゃあ、また次のときがあったら餌やりの仕方教えてあげる」

 彼女はキョトンとして、頷いた。

 何故か少し警戒を解いてくれたらしく、硬かった表情が緩んでいる。

「いつも餌をやってるの?」

 彼女の問いに、魚を見ながら答える。 

「まあね。休み時間はほとんどここにいるから」

 一年前くらいにここを見つけてから、魚の餌やりが日課になった。

「こんなところまで、休み時間のたびに来てるの?」

 目を見張る彼女に、踏み込むべきか踏み込まないべきか迷って、──意を決して踏み込む。

「教室、うるさいから。…君もそう思うからここまで来たんじゃないの」

「え、」

 答えに迷う彼女に視線を移し、思い切って言う。

「君のこと、男子に媚び売ってるぶりっ子だって、女子たちがよく言ってる」

「知ってたんだ?」

 平静を装おうとしながらも彼女の手は震えていた。

 その姿が昔の自分と重なって、目を逸らす。

「僕自身は君に何も嫌な事されてないのに、君に嫌な事する理由がないでしょ」

「だけど、私と関わったら巻き込まれるかもしれないのに」

「その場合、僕を害すのは被害者側の君じゃなくて加害者だよね。僕が君を害す理由にはならない」

 あのとき欲しかった言葉を少しでも届けられたなら、少しでも助けになれたなら、あの経験も意味のあるものになるのではないだろうか。

 エゴだ。利己だ。そんなことは分かっていた。

 それでも言葉を重ねずにはいられなかった。

 彼女のためではなく、自分のために。

 言い切った勢いで時計を指差す。

「ほら、そろそろ時間だから戻らないと」

 立ち上がって歩き出す。彼女はハッとして足を踏み出しかけ、止まって言った。

「また、ここに来てもいい?」

 その言葉に振り返ったが、心からほっとしたような声のトーンに後ろめたくなってぶっきらぼうに返す。

「君がどこでどう休み時間を過ごすのかは自由だから僕の許可なんか要らないよ」

 無愛想すぎたかなと思い直し、追いついた彼女に言う。

「けど、また来るなら餌やりは君が来るまで待っててあげる」

 ありがとう、と嬉しそうに言った彼女は、それから休み時間のたびに水槽へ来るようになり、取り留めのないことを話すのが日課になった。「真面目だが気が強くて少し毒舌な、どちらかと言うと苦手なタイプ」のイメージも変わり、「意地っ張りだけれど真面目で繊細な、唯一気軽に話せる友達」になった。

 僕が始めたはずの魚の餌やりが彼女の仕事になった頃、学校でも会えば話す仲になったために相場に下世話な噂を立てられることになるが、その頃には噂なんて気にならなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ