九月 side.桧凪 [2]
「これで必要な書類は揃った?」
「はい。これを記入すれば、終わりです」
自宅のアパートの一室、書類が置かれた机を挟んで向かいに美奈子さんが座っている。室内は、一ヶ月前からは考えられないくらい殺風景だった。
各種の手続き書類も記入済みだし、この部屋の契約も九月末までで解約することになっている。引越し用の荷造りも終わったし、銀行やクレジットカードも一つを残して全て解約した。
残り一枚の記入を終え、珈琲を二人分入れて机に置き、椅子に座った。
居住まいを正し、頭を下げた。
「色々と、ありがとうございました」
たった一ヶ月でここまでできたのは美奈子さんのお陰だ。
「顔を上げてよ。大したことしてないわ」
「いいえ、とても助かりました。……それと、すみません。ご連絡いただいたのに、こんな…」
生き別れの姉の消息が分かったかと思えば既に亡くなっていて、姉の忘れ形見である姪まで死ぬなんて、この人にとっては不幸な話だ。特に、私の死期は私の決断ゆえに早まっているから、後ろめたい気分だった。
「それこそ、あなたが謝ることじゃないわ」
美奈子さんは首を振った。
「間に合って良かったって思いましょうよ。あと少し遅かったら、あなたの消息まで分からなくなっていたところだったんだから」
美奈子さんが少しおどけて言うのに、不謹慎ながらふふっと笑みを零してしまった。
「確かに、そうかもしれませんね」
「そうよ、それを思ったらあのとき連絡したのは英断だったわね」
ふふふ、と美奈子さんも笑い出す。
一頻り笑い合って落ち着いた後、ふと美奈子さんが口を開いた。
「あなたがこう言われるのが嫌なことは知っているし、私が口を挟める立場ではないけど、…本当に良かったの?治療しなくて」
良いんです、と答えようとして、頭の中を疑問符が横切った。
本当に、良かったのか?
考え込みながら、口を開く。
「……どうなんでしょう」
美奈子さんからしても想定外の返答だったらしく、え、と小さく驚きの声を漏らした。
「あ、いえ、急に治療に気持ちが傾いたとか、そういうことではないんですが。今の答えが最善策だと思っていますし、今のところ後悔もしていません」
考えながら、次の言葉を紡ぐ。
「でも…心変わりがないとは言いきれないし、生きたいと思う気持ちも、やっぱり奥底にはあるんです」
そう、生きたい気持ちが全く無いわけではないのだ。薄いというだけで。
「死を意識していないからこそ、『死にたい』気持ちが溜まっていく。とすると、逆に死を意識し始めたから、生きたいと思うのだと思います。生と死の間で揺れていたとしても、これが私らしい生き方だと言えるのなら、それが正しい道だと思うんです。…だから私は、治療を選んでいたら、とか悩むんじゃなくて、これが私らしい生き方だと胸を張ってあと少し生きることにします」
果たして最初の問いの返事になっているのか分からないような曖昧な結論を出してしまったような気がしたけれど、美奈子さんはうーん、と唸って感心したように呟いた。
「…達観、しているのね」
「大人ぶってるだけですよ」
苦笑して首を振ると、美奈子さんはそう言えるのが達観してる証拠よ、と笑った。いや、そんな、と否定しながら、胸の内で言う。──割り切ったふりをしているだけで私はずっと悩んでいたし、今もこれからも悩むと思います。
それから少し世間話をして、玄関で美奈子さんを見送った。私のカップの底に残っていた冷めたコーヒーを飲み干し、食器類を片付けながら二週間前の藤木先生の言葉を思い返す。
──後悔だけは、しないように。
たんぽぽホームの入所前アンケートの、一つだけ埋まっていない枠。「しておきたいこと、叶えて欲しいことを一つだけ書いてください」。私は、最期に何がしたいのだろう。心残りが、あるのだろうか。




