九月 side.桧凪 [1]
看護師長に辞表を提出し、仕事は九月末で辞めることになった。
既に噂は広まっていて、若いのに、治療をした方が、と言われることもしばしばだったが、その度に笑って受け流した。もう、私の心は決まっていた。
特にお世話になった藤木先生には直接事情を話しておかないと、と思ったので、折を見て声をかけた。
「すみません、今、少し良いですか?」
「はい」
藤木先生は手を止めて振り返った。
「ご存知かもしれませんが、…実は、少し前に白血病だと診断されて。静養することになったので、仕事は九月末で辞めることになりました。今まで、ありがとうございました」
そう言って頭を下げると、藤木先生はいつもの穏やかな声で、こちらこそと言った。
「噂では聞いていましたが、…そうなんですね。話してくれて、ありがとうございます」
いえ、と答えた後、何と言えばいいのか分からず黙ってしまう。しばらく、気まずい沈黙が流れた。
先生にまで噂が伝わっていたんだな、と思って、──ふと、気になった。
「先生も、治療をした方が良いと思いますか」
藤木先生はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「その問いには少し、遠回りをして答えても良いですか」
「…?はい」
遠回りとは…?と思いながらも頷く。藤木先生は軽く頷いて、話し始めた。
「精神科の看護師は、患者さんを受け入れる看護師と、患者さんを導く看護師の大きく二種類に分けられると思っています」
何を言いたいのか図りかねて首を傾げたが、構わず藤木医師は続けた。
「精神科へ来る患者さんは、自分の殻に閉じ籠ってしまっている人が多い。まずは全てを許容して受け入れ、居場所を作ることが大切です。ですが、それだけでは改善しません。励まして前を向かせる人も必要です。そして、これら二つの役割を同じ人が担うことはとても難しい。前を向いてほしいと思って看護している人は自分の殻から出てこようとしない患者さんに苛立ってしまいますし、受け入れ型の看護師は前を向かせるための声掛けが苦手な傾向があるからです」
藤木医師は淡々と続けた。
「この二つのタイプがつり合っている状態が好ましいですが、受け入れ型の看護師は非常に少ないように感じています。精神科に来る患者さんを受け入れるためには、死にたい、消えたい、というマイナスの感情まで全て受け入れなければなりません。しかし、医療というのは、人を死なせないためのものです。『目の前の人に少しでも長く生きてもらうため』をずっと考えている医療従事者にとって、死にたいと願う意思まで全て『受け入れる』ことはとても難しいことなのでしょう」
先生の言いたいことが、何となく分かった気がした。
「死にたいという意思や考え方を受け入れることのできる看護師は、程度は違えど、『生きたい』という意思が希薄です。どこかに生きたくないという気持ちがあるからこそ、死にたいという意思を受け入れることができる。…浜名さんは、受け入れ型の看護師です」
つまり。
「私は、治療をした方が良いとは言いません」
思いません、ではなく、言いません、というのが、藤木先生らしい言い方だ。言わない、と言い切るその気遣いの細やかさが、心に沁みた。
「ありがとうございます」
何も返せないので、代わりに深く頭を下げた。
藤木先生は頷いて、机に向き直った。
もう一度深く頭を下げ、踵を返す。足を踏み出しかけたとき、藤木先生が呟いた。
「後悔だけは、しないように」
大きく息を吸って、はい、としっかり返事を返した。




