八月 side.陽仁 [2]
八月の終わりがけ、残暑に差し掛かったくらいのある昼下がりのことだ。まだまだ鋭さがある日光が窓から差し込んでいて、少しまぶしかった。
向かいのベッドの佐久田さんがおずおずといったふうに口を開いた。
「浜名さんのこと…。話しているのを、偶然聞いてしまったんだけど」
他の二人は診察や面会で出払っていて、ちょうど部屋には二人きりだった。──二人きりになるときを狙っていたのだろう。
「大丈夫?」
何のことか分からず、首を傾けた。桧凪に関することで大丈夫かと訊かれるような心当たりはない。
「何のことですか?」
佐久田さんはやや戸惑いながら答えた。
「え、白血病って…」
「白血病…?」
ピンと来ていない僕の様子に、佐久田さんはしまった、という顔をした、
「ごめん、忘れて」
そんなことを言われても忘れられるわけがない。
白血病。少し前、立ち眩みを起こしていたこと。辞めようと思ってるんだ、という言葉。
血の気が引いていく気がした。布団の中でグッと拳を握り、尋ねる。
「話してください。お願いします。桧凪がどうしたんですか」
いやでも、その、と誤魔化そうとする佐久田さんに、どうしてもと食い下がる。
根気負けした佐久田さんは軽く溜息を吐いて、仕方ないな、と呟いた。
「噂だから、あまり深刻に受け取らないで欲しいんだけど。浜名さんが白血病にかかっているみたいで、それが治りにくい種類らしくて。それでなのかは知らないけど、治療したくないって言ってるって聞いて…。それで、気になって」
僕と桧凪の関係性は周知の事実だ。僕なら知っているだろうと思って話したということらしい。
「でも、本当に看護師さん同士で話してたのが聞こえてしまっただけだから…浜名さんは廣中君が来る前はこの部屋の担当だったからお世話になっていたし。…けど、本当に真偽は分からないよ。治療したくないって言ってるのも、浜名さんらしくないし」
僕が厳しい顔をしていたからだろうか、佐久田さんはそう付け加えた。
しかし、不思議と僕にはこれが事実だという予感があった。
桧凪の様子とも整合性が取れているし、桧凪ならあっさりと、命に関わる病なら治療はしないと言ってのけるだろう。
多分、今も彼女はこの世界に淡い諦念を抱いているだろうし、生きたいとは思っていないだろうから。
そこまで分かっていても、桧凪が死ぬなんて、信じられなかった。
嫌だ、とか、悲しい、とか、怒り、とか、そういう気持ちも湧かないほど、実感がない。正確に言えば、桧凪が死んだ後、僕が生きている想像がつかなかった。
僕が自殺未遂なんてしていなかったら、 運ばれた先の病院が偶然桧凪の職場でなかったら、あのまま切れていたはずの縁。それは、今の僕にとっては大きな原動力になり得るものであり、羅針盤でもある。
桧凪は僕が何と言おうと絶対に意思を変えないだろう。治療してくれと懇願しても、困った顔で申し訳なさそうにごめんね、と言うだけだ。
僕は桧凪にそんな表情をして欲しいわけじゃない。謝って欲しいわけじゃない。
こんな僕がしてあげられる恩返しは、意思を尊重することくらいだ。
桧凪は、決して生きろとは言わなかった。それは、桧凪自身が、生きていることが辛いと思っているからだ。死にたいと願う気持ちを知っているから、彼女は生きることが正しいとは言わない。
それは、裏を返せば、死ぬことが正しいときもあると思っているわけで。
桧凪にとってそれは「今」なんだろう。
──自分の死に際は、自分で決める。
中三の頃の桧凪の声が蘇る。あれは、なんの話しをしていた時だっただろう。桧凪が、偉人の死に際ばかりをまとめた、奇妙な本を読んでいたときかもしれない。
今思えば、だいぶ達観した子どもだった。いや、達観させられたというべきか。
あの頃から、変わっているようで何も変わっていない。




