二月 side.桧凪 [2]
陽仁と話すようになったのは、中学校に上がって少し経った六月の初め。
三月の春期講習から入った塾は、一学年に五十人くらいの生徒がいる、かなり大きい塾だった。そのほとんどが近くの三つの中学に通う生徒で、その中でも私と同じ南陽中の同級生は約三十人、そのうち女子が二十人くらい。
それだけ女子が集まれば、グループができる。当然、カーストのようなものも形成される。そして学校のそれよりは成績順になるけれど、基本は学校と同じだ。成績さえ良ければカースト上位にいられるわけでもない。
詰まるところ、カースト上位の女子に睨まれた私が孤立しないわけがなかった。
相場美鈴という名前のその女子と私は、部活もクラスも塾も一緒だった。塾でも学校でも取り巻きに囲まれている、トイレすら複数人で行くタイプ。合わないことは分かっていても、敵に回したら厄介だからと三月と四月は我慢して合わせていた。
けれど五月の初め、部活内のことで相場の機嫌を損ねてしまったことで、私の生活は一変した。
根も葉もない噂を立てられ、嘲笑され。クラスでは半数は小学校が同じだったから一人になることはなかったけれど、塾では新参者の私に話しかける人はいなかった。
憐れみからくる同情と、標的が自分じゃなくて良かったという安堵と、噂の真偽に対する疑念が入り乱れた視線が、余計に私を消耗させる。本を読んでいても音楽を聴いていても気が休まらなかった。
そんな自分に嫌気がさした私はその日、本を持って教室を出た。九十分の授業の後で、十五分もある休憩時間を消耗して過ごすのは辛い。
落ち着ける場所を探して歩くうちに、廊下の隅まで来てしまった。トイレや教室から奥に進んだ、職員室がある辺りなので生徒はあまり来たがらないのだろう。閑散としていて静かだった。
そんな廊下の突き当たりに、教室の机が置かれていて、その上に小さな水槽が一つ置いてあった。濃い青色をした熱帯魚が一匹だけ、水槽の中を悠々と泳いでいる。こんなところ、あまり来ないから気づかなかった。
その青の鮮やかさに吸い寄せられ、近寄る。
水槽の中で一匹きり。孤独だけど、周りを気にしなくていいのは気楽なんだろうな。
こうして泳いでいるだけで餌がもらえて、定期的に掃除して住環境も整えてもらえて。
いいなあ。
食い入るように見つめていると、不意に背後から声をかけられた。驚いて振り向く。
「餌やりしたいんだけど、いい?」
餌が入っている箱を片手に、同じ中学の男子が立っていた。小学校は違うし、顔は知ってるけど名前は知らない。
ということは、向こうだって私のことは知らないはずだ。
そう分かっているはずなのに淡い恐怖感は消えず、私はやや緊張しながら頷いた。
「あ、うん」
場所を代わると、男子は小さめの錠剤くらいの大きさの餌を三粒、箱から出して餌やり口から水槽の中へ落とした。
落としてから、あ、と呟いた。
「やりたかった?」
そう訊かれて首を傾ける。興味はあるけれど、どうしてもやりたいっていうほどじゃない。
私の曖昧なリアクションに、彼はふっと笑みを浮かべた。
「じゃあ、また次のときがあったら餌やりの仕方教えてあげる」
その笑みと言葉は自然で、優しかった。この人は、良い人みたいだ。警戒心を解き、素直に頷く。
「いつも餌をやってるの?」
私の問いに彼は視線を魚に向けたまま答えた。
「まあね。休み時間はほとんどここにいるから」
「こんなところまで、休み時間のたびに来てるの?」
驚いた。職員室前まで毎回歩いてくるのは面倒じゃないんだろうか。
「教室、うるさいから。…君もそう思うからここまで来たんじゃないの」
「え、」
答えに迷っていると、彼は魚から私に視線を移して言った。
「君のこと、男子に媚び売ってるぶりっ子だって、女子たちがよく言ってる」
淡々としたその言葉に、体の芯が冷えていく。
「知ってたんだ?」
平静を装ってそう訊く。彼は水槽に視線を戻して言った。
「僕自身は君に何も嫌な事されてないのに、君に嫌な事する理由がないでしょ」
きっぱり言い切られて、戸惑う。確かにそうなんだけれど、でも。
「だけど、私と関わったら巻き込まれるかもしれないのに」
傍観者でいれば自分が標的になることはないし、可哀そうにと同情を向けていれば罪悪感だって薄い。何とかしてあげたいけれどできないんだ、という体裁を取り繕うのなんか簡単だ。
——私だって当事者でなければきっとそうで。
「その場合、僕を害すのは被害者側の君じゃなくて加害者だよね。僕が君を害す理由にはならない」
暗くなった空気を払拭するように彼はさっきよりも強い口調で言い切って、時計を指した。
「ほら、そろそろ時間だから戻らないと」
立ち上がって歩き出す彼に一歩遅れて足を踏み出しかけて、立ち止まった。
「また、ここに来てもいい?」
彼は少し面倒そうに振り返って言った。
「君がどこでどう休み時間を過ごすのかは自由だから僕の許可なんか要らないよ」
再び歩き出した彼に小走りで追いつくと、今度は私の方を見ずに口を開いた。
「けど、また来るなら餌やりは君が来るまで待っててあげる」
誤字報告、ありがとうございます。