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君は、  作者: 千草色
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七月 side.陽仁 [2]

「おはようございます」

 読んでいた文庫本をベッド脇の机に置き、おはようございますと挨拶を返す。

 看護師さんが起こしに来る前に目覚めているのは僕だけなので、一番に話しかけられるのも大抵僕だ。

 この日起こしに来たのは笹木さんだった。いつものように窓に近付き、カーテンを開ける。

「いつも早いですね。体調はどうですか?」

 特には…と首を振る。退院の見通しが立ったからか、入院がいつまで続くか分からなかった頃より焦燥感も軽減されている。

「それなら良かったです。今日は朝食後に診察がありますのでまた呼びに来ますね。面会の予定はありません」

「分かりました。ありがとうございます」

 軽く頭を下げると、笹木さんは頷いて隣のベッドの方へ行った。

 今日の診察で、退院した後の話もしなければならない。実家を離れた方がいいと思うし、大学も辞めた方が精神衛生上良いだろう。桧凪が言っていたように、グループホームで暮らすのは良い経験になるだろう。

 僕は再び文庫本に手を伸ばした。本を開く。パラパラと指でページを捲っていくと、さっき栞を挟んだページで止まった。

 ふと、中学のころを思い出した。水槽の横で桧凪は同じように本を開いていた。

 あの頃桧凪はどんな思いで本を開いていたのだろう。現実から逃避していたのだろうか。本を開いていただけで進まなかった日があったのだろうか。

 静かに本を開いて立つ桧凪の姿が僕は好きだったけれど、あれは怒りや恨みを心の内に押し込めるためだったのかもしれない。

 桧凪はもともと、積極的に自分の話をする性格ではない。どんなに理不尽なことも呑み込もうとするタイプだ。

 この前の面会で大丈夫?と聞いたときもそうだった。返事が一拍遅れた。あれは、言いたいことを呑み込むときの癖だ。

 あれは何だったんだろう──と思案した答えの一部は、診察室からの帰りに分かった。


 診察室から自室へ帰る途中、勤務中の桧凪を見つけた。グループホームへ行くことが決まった事を話すべきなのか話しかけないほうがいいのかと迷っていると、 桧凪の方も気付いたようで、僕の方へ向かって来ようと足を踏み出した。

 そのとき、桧凪がふらっと大きく傾いた。慌てて駆け寄って支える。桧凪は酷い立ち眩みを起こしたようで、しばらくしてようやく手を離した。

「ごめん、ありがとう」

「いや。…大丈夫?」

 尋ねると、桧凪は一瞬迷ってから答えた。

「…大丈夫」

「嘘だ」

 思わず、口をついて出てしまった。桧凪が驚いたような顔でこちらを見ていた。

「大丈夫じゃなさそうに見えるけど」

 言ってしまったのを後悔したが、後の祭りだ。

「この前の面会のときも普段と違ったし、そもそも立ち眩む時点であんまり大丈夫じゃないっていうか…」

 しどろもどろになりながら弁明すると、桧凪は苦笑いを浮かべた。

「私、そんなに分かりやすいんだね」

 何と言えばいいか分からなくて黙っていると、桧凪は笑みを消し、俯いた。

「仕事、辞めようと思ってるんだ」

「え」

 何かあったのだろうか。仕事についてはあまり聞かないから知らないが、少なくともついこの間までは、辞めるなんていう話が出てくるような様子はなかった。

「どうして」

 その問いに答える気はないようで、桧凪は踵を返した。

「勤務中だからもう行くね。八月いっぱいで辞めるから、面会に来れるのもあと十回くらいだけど、退院する方が早いかと思って言ってなかった。ごめん」

 支えてくれてありがとう、じゃあ、と足を踏み出した彼女の腕を掴もうとしたが、するっと通り抜けられてしまった。

 廊下に一人取り残された僕は、彼女が歩いていった方を見ていることしか出来なかった。

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