六月 side.陽仁 [2]
その一週間後のことだった。
矢桐が車の中で練炭を焚いて、死んだ。
一酸化炭素中毒だった。
葬式に顔を出した僕に、彼の母親は硬い表情で封筒を差し出した。彼の筆跡で僕の名前だけが書かれた、ごく普通の茶封筒。
受け取ってお悔やみの言葉を述べ、眠っているかのような彼の顔を見ながら表面的な会話を二言三言交わしたが、彼の母親は終始他人行儀な態度を崩さなかった。
火葬場までは行く気になれず、一時間強の葬式が終わった後、帰る前に挨拶しておこうと彼の母親を探した。彼の姉らしき女性と話しているのを見つけ、おもむろに近づいたとき、母娘の会話が聞こえてしまった。
「…研究室で、教授の息子に目を付けられていじめにあっていたって、さっき…」
「そう…だったのね」
「あの子、そんなこと一言も…。遺書すら、私たちにはたった一言ごめんってだけで」
「……自殺する前に、一言、相談して欲しかった。いじめられてるんだって、言って欲しかった、けど…あの子にとって私は、自殺を考えるほど思い詰めても相談できないような、頼りない親だったのよね」
彼女は涙を流しながら、ごめんなさい、と繰り返し呟いた。彼の姉は泣きながら母の背を擦った。僕はそっとその場を離れ、式場を後にした。
家に帰る道中も先程の会話が耳から離れず、脳内で再生を繰り返した。
研究室。教授の息子。いじめ。僕の件が原因に違いなかった。研究室内で一番上の教授に逆らったらどうなるのか、僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、考えてもみなかった。いじめの渦中にいる素振りなんて、微塵も見せなかった。僕を励ましながら、彼は何を思っていたのだろう。そんな彼に、僕が最後にかけた言葉は酷いものだった。家族にさえ一言だけしか書かなかったのに、何故そんな僕に遺書を残したのだろう。
家に着いてすぐさま、震える手で茶封筒の封を切った。三つ折りのA4のレポート用紙に、少し角張った字が並んでいた。
──廣中へ
こんなふうになって、ごめん。けど、もう限界なんだ。
お前に一つ、謝らなきゃならないことがある。
実は俺、あいつらにいじめられててさ。あ、お前の一件が関係してるわけじゃないから勘違いするなよ。院に上がってから始まったから、あの時には既に五年くらい続いてたんだ。
暴力振るってくるわけじゃなかったけど、だからこそタチが悪かった。精神的な攻撃って身体的なそれよりダメージ大きいんだって初めて知ったよ。それなのに証拠が残らないって、悪質だよな。
だから俺、お前が講師になって標的が移ったとき、ほっとしたんだ。これで解放される、って安堵した。
そんな矢先だった。あいつらに、お前が成果を偽って講師になったって噂を広めるのに協力すれば金輪際嫌がらせはしないって言われたのは。
藁にもすがる思いで、俺は噂を広めた。そんな口約束、あいつらが守るわけないのにな。
お前の味方してたのは罪悪感からだ。
謝って済むことじゃないのは分かってる。けど、ごめん。本当に、ごめん。
それと、最後のときの。怒って悪かった。俺に味方はいなかったからお前以上だったんだって思って、つい、感情的になった。深層心理には、お前がいなくなったらまたいじめの標的になるって恐怖があったのかもな。…最低だな、俺。
友達だって信じて疑わないお前を見てると、罪悪感が募るんだ。自業自得だけど、もう耐えられない。この後悔と自責から逃げたくて、だけどこうする他に逃げられる方法を思いつかなかった。
俺を恨んでくれ。そうでないなら綺麗さっぱり忘れてくれ。
自分勝手ついでに書いておくが、お前と、なんでもないことを際限なく話すのは面白かったし楽しかった。まあ、戯言だと思って聞き流してくれ。けど、輪廻転生なんてものがあるんだったら、今度は躊躇いなく友達と呼べる関係になりたい…なんて、俺に願う資格は無いな。
男子にしては綺麗な、矢桐、という署名の上に、ぽたっと一粒涙が落ちた。
手の中に遺書を握ったまま、僕は顔を覆うことも涙を拭うことも忘れて、呆然と立ち尽くした。静まり返った部屋の中、ただ涙だけが次々と頬を伝って床を濡らす。
分かっていたのに。矢桐も僕の噂を広めたうちの一人だなんてことは。親切に見せかけた連中がわざわざ忠告しに来たことだってあったし、僕と話す矢桐を見て陰口を叩く奴らの存在にだって気づいていた。それでも僕は嬉しかったから、知らない振りを貫いていただけだ。研究室の外で普通に接してくれる人なんて、矢桐しかいなかったから。
だから良心の呵責に苦しむ必要なんてなかった。一言話してくれれば、そんなこと、と笑い飛ばせた。それくらい、軽い話だった、のに。
死ぬ必要なんて、無かったのに。
「遺書読んだときも限界だったけどさ、その後、そもそも矢桐が五年以上いじめられてた事実に気付けなかったんだって気づいて、絶望した。自殺にまで追い込まれたのも、そうなる前にちゃんと話さなかった僕のせいなんだよ」
「それは違う」
僕がそう話を結ぶと、桧凪は間髪入れずに否定した。それに僕は素直に頷いた。
「客観的に見れば僕のせいじゃない。それは分かってる。けどね」
桧凪は黙って僕の話に耳を傾ける。
「僕がいなければ、今回のことは起こらなかった。そう考えたら、これ以上他人に関わるのが、どうしても怖くて。家の中でずっと、僕の生きている意味があるんだろうかって考えてた」
「…それで、自殺未遂を…?」
掠れた声で桧凪が言ったのに頷く。
それ以上はお互いに何も言えなかった。ほどなくして沈黙を破ったタイマーに従って、僕らは面会室を後にした。
筆者の都合により、この「六月 side.陽仁 [2]」を以て、一ヶ月半休載させていただきます。
申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。
休載後の連載開始は、8月11日を予定しています。




