五月 side.陽仁 [2]
前回の修正版、出せなくてすみません。というか、出せる気がしません…待ってくださっていた方、本当にすみません。
今回は普通くらいの長さになっています。
病室から見える桜がすっかり葉桜へ変わり、日差しも少し強くなった。地球温暖化のせいか、まだ五月の下旬だというのに日中は三十度を超えることもあるらしい──とは、桧凪に聞いた話だ。僕はまだ、常に快適な空調が保たれている建物内から出ることすら許されていない。
僕にとっての外の気温は三月に病院の中庭を歩いた時の肌寒さで止まっていて、テレビや桧凪から暑くなってきたと聞くと不安になる。僕だけが社会から置いて行かれているような、そんな錯覚に陥ってしまう。
錯覚、というか実際に置いていかれているわけだけど。
沈みそうになった気分を切り替えようと、窓の外から机の上のクロスワードパズルの雑誌に視線を戻した。暇を持て余すようになり、桧凪に買ってきて欲しいと頼んだ雑誌だ。
コンコンコン、とドアがノックされ、開く。
ドアをノックするのは看護師か医師だけで、彼らが来るのは、食事や入浴の時刻でないときはたいてい面会の合図だった。
案の定入ってきたのはこの病室担当の看護師の笹木さんで、室内にいた四人は各々手を止めて入口の方に注目した。とはいえ、ある程度誰の面会か想像はついている。今日、面会の予定があるのは一人だけだ。僕の向かい側のベッドの佐久田さん。
保護室から移った四人部屋は、僕が入ったときには既に他の三つのベッドは埋まっていた。精神科の特性上、入院期間が長くなることが多いため入院患者の入れ替わりはほとんどなく、この部屋でも顔ぶれは最初から変わっていない。
同じ部屋で暮らし始めてから二ヶ月弱、同室の人たちとは、今日は面会だとか病院食の好きなメニューだとか他愛ない話をする間柄になっていた。
「佐久田さん、奥さんが来られましたよ。一番の面会室です」
想像通りだ。佐久田さんは頷いてノートを閉じ、ぺっドから降りた。
他の二人は既に元の作業に戻っている。
僕も手元のクロスワードに再び目を向けようとしたが、看護師が次に発した台詞に阻まれた。
「それと、廣中さんにも面会したいという方が来られていますが…」
想定外すぎて、はい?と間抜けな声を出してしまった。
笹木さんは僕のベッドの近くまで来ると声を低くして言った。
「仁敷拓さんとおっしゃる方です」
その名前を聞いた途端、ドクンッと一際大きく心臓が脈打った。
笹木さんが続ける。
「先生から許可は出ていますので会いたいようなら二番の面会室になります。もちろん断ることもできますが」
どうしますか、と尋ねられたが、どうしたいのか自分でも分からない。
正直、会いたくない気持ちの方が大きかった。ただ若干、どんな目的でここまで来たのかが気になる。
しばらく逡巡したが、結局、首を横に振った。
「あまり会いたくないかもしれません」
笹木さんは軽く頷いて、では断りますね、と言った。引き戸の近くで待っていた佐久田さんとともに病室を出ていく。
仁敷は卒業研究で同じ研究室に所属していた友人だ。友人だった、と言うべきかもしれない。ともに大学院へ進み、同じ教授のもとで学んでいた。
まじめで人が良く、リーダーシップがある所謂明るい委員長タイプ。威張ったところがないため人望があり、院生のみならず教授からも厚い信頼を得ていた。
彼が落ちぶれた僕を前にして何と言うのか若干の興味はあるが、謝られるのは違う気がするし、かといって許してくれと言われても許せない気がする。お互いになかったことだと思っていくのが一番良いのではないか──と思ったとき、桧凪の淡々とした声が耳の奥で蘇った。
──だから利子付きの恩返しなの。
桧凪は中学のあのころのことを、今、どう思っているんだろう。加害者たちを、許せたのだろうか。過去を消化できたのだろうか。
桧凪ならできたのだろうな、と思う。あのとき死ななくて良かったと思えるほど今が幸せなのは、自分でそう生きようとしてきたからだ。過去に囚われず、今の幸せに目を向けられる強さが、桧凪にはあったのだろう。
中学の時の話を聞いて以来、ずっと考えていた。
このままでいいのか。会いたい人にだけ会う我儘が許されて、言われたとおりに行動しているだけでも怒られるどころか褒められるこの生活を、ずっと続けていて良いのか。
閉鎖病棟へ入った後、初めての面会での桧凪の表情を思い描く。
──私が、抑止力になれたら良かったんだけどな。
こんなふうにはならなかったのかもしれないね、と呟いた桧凪の声は軽く、乾いていて単調だった。桧凪は、負の感情に囚われているときほど、それを悟られないように淡々と話す。何を言われても私は平気です、気にしていませんと強がるための、一種の防衛本能のようなものなのだろう。
そんな防衛本能が働くほど、あのとき、桧凪は深い後悔に駆られていたのだ。
どうして僕なんかにそこまで優しくしてくれるのかと思うと同時に、その優しさに応えたいとも思う。
助けを求められる、強さを持ちたい。
自分の弱さ、醜さを打ち明けられる強さを持ちたい。
しかしそんな勇気は出せぬまま、僕は雑誌にクロスワードの答えを書き込んだ。
筆者の都合により、6月23日分「六月 side.陽仁 [2]」を以て、一ヶ月半休載させていただきます。
申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。
休載後の連載開始は、8月11日を予定しています。




