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君は、  作者: 千草色
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五月 side.桧凪 [2]

先週、短いかもしれませんと言ったのは噓でした。すみません。前回並みに長いです。

次回は短いつもりです(長いかもしれませんが…(フラグ))。

 トイレの手洗い場で軽く顔を洗ってみたけれど、腫れた(まぶた)は少しも誤魔化せなかった。

 あとは帰るだけだしいいかと割り切って、荷物を持って廊下へ出る。

 昇降口で靴を履き替えようとしたところへ、さっきの美鈴の取り巻きの一人が来た。塾で見る金魚のフンのようにいつも美鈴にくっついているうちの一人。

 もう帰ったと思っていたのに、と極力目を合わせないように顔を背けながら急いで靴を履き替える。

 ほとんど逃げるようにしてその場を立ち去ろうとした私に、金魚のフンは後ろから「なあ」と声を掛けた。

「さっき廣中が言ってたよ。お前が鬱陶(うっとう)しいってさ」

 雷に打たれたような衝撃に、立ち竦んだ。

 陽仁がそんなこと、言うはずがない。大方(おおかた)、鬱陶しいという単語だけを切り取って伝えてきたとかそんなところだ。理性では分かっているのに、体が言うことを聞かない。

「瞼腫れてんじゃん、あ、知ってた?で泣いてたとか?ウケる」

 俯く私の顔を覗き込みながら、全然面白くなさそうに笑う。

「だっさ」

 そう言い捨てて金魚のフンは外へ出て行った。私はしばらく立ち尽くしていた。

 鬱陶しいなんて言うはずない、と訴える理性に、心がブレーキを掛ける。本当に?口を開けば部活の愚痴ばっかりで、慰めてもらう一方で、悲観的で。ここ最近陽仁の話を聞いたっけ。私が可哀そうだから一緒にいてくれているだけで本当は嫌なのかもしれない。

 鼻の奥がツンと痛むのに涙は出ない。叫びたかった。叫ぶ言葉が見つからなかった。

 ただ地面を見つめたまま、静かに立っていた。

 ——疲れた。

 そう思った瞬間、ぷつんと私の中で張り詰めていた何かが切れた。

 私、疲れてるんだ。この日常に。

 ──もう何も感じたくない。怒りも悲しみも、喜びでさえ。

 履いた靴を脱いで、素足のまま廊下に足を下ろす。

 部活のことだって初恋だって、全部全部、もうどうでもいい。

 終わりでいい。

 まっすぐ屋上を目指して、階段を(のぼ)る。十二月の廊下が足の裏の感覚を奪っていく。こんなときでさえ冷たさや痛みを感じるのがおかしく、(わずら)わしかった。

 どうせもうすぐ死ぬなら痛覚なんてなくなってしまえばいいのに。

 二階、三階と通り過ぎて四階。屋上に続く階段へ足を踏み出したそのとき、腕を掴まれた。

「そっち屋上だけど」

 陽仁だった。

 学校指定のウインドブレーカー越しに、微かな温もりが伝わってくる。その温かさを振り払うことはできず、足を止めた。

 なんで今なの?なんで死なせてくれないの?

 信じてすらいない神様に八つ当たりする。

「てっきりまた歩きながら本でも読んでて間違えたのかと思ったけど、普通に間違えただけ?何か忘れ物?」

 その少し揶揄(からか)うような声音に涙が零れそうになったのを、口を固く引き結んで堪えた。

 目を合わせないよう下を向いたまま、絞り出すように答える。

「放っておいて」

「放っておいてって…。屋上に何の用があるの。どうしてもって言うなら一緒に行くから」

 陽仁は困惑と心配が()()ぜになったような表情をしていた。

 精一杯強がって冷たい声を出す。

「来ないで」

 にべもない私の態度に陽仁はややむっとしたように眉をひそめた。

「ねえ、話してくれなきゃわからないよ。僕、何か気に障るようなことした?」

 してない。陽仁が鬱陶しいなんて絶対言わないことは、頭では分かっている。問題は感情が理解してくれないことで、それは私のせいで陽仁のせいじゃない。

 何も言えず、黙ったまま俯いた。そんな私の態度を咎めるでもなく私の言葉を待つ陽仁に、申し訳なさが募っていく。

 右手で左腕の袖をぎゅっと掴み、唇の間から小さな声を絞り出す。

「鬱陶しいって言ってたって、聞いた」

「そんなことっ」

 慌てて否定しようとした陽仁を遮って、続ける。

「陽仁はそんなこと言わないって分かってる。いつもの、ただの子供じみた嫌がらせ、だけど」

 涙腺が緩む。もう枯れたと思ったのに。

「不安になった。怖くなった。言ってないだけで、思われてるかもしれない。だってまだ一年も経ってないのに、部活でもクラスでも塾でもはじき出されてるのは私が悪いからに決まってるじゃない」

 歯止めが利かず、言い募る。こんなことを言いたかったわけではないのに止められない。

「短所ならいくらでも出てくるのに長所なんか一つも思い浮かばない。私を一番嫌いなのは私。そんな人と仲良くなる物好きなんていないに決まってる、って考えてたら」

「…考えてたら?」

 言葉を切った私に、陽仁は淡々と訊ねた。

「疲れた。考えるのも、感じるのも何もかもが嫌になった」

 涙が静かに頬を伝って、床を濡らす。

 私が口を閉じると、辺りはしんと静まり返った。

 いたたまれなくなって手の甲で乱暴に涙の痕を拭い、作り笑いを浮かべる。

「ごめん。今日、悲観的になりすぎてるよね。でももう大丈夫だから」

 即席の作り笑いで誤魔化せるはずがなく、陽仁は顔を(しか)めた。

「どこが大丈夫なの」

 大丈夫じゃない。だけどそれ以上に、鬱陶しいと、重いと思われたくない。

 自分の重さを実感したくない。

 そんな私の考えを見透かしたように、陽仁は真っ直ぐ私の目を見つめて言った。

「鬱陶しいなんて思わない。嘘ついてるように見える?」

 いつもは軽く目が合うだけでも気まずそうに逸らすくせに、今はじっと私の目を捉えて離さない。

 観念して、見えないと小さな声で答える。陽仁は今頃になって気まずくなったのか、ふいと目を逸らした。

「…いつもなら嫌がらせだって分かってるのにそんなふうにならないでしょ。ほかにも何か、あったんじゃないの?」

 照れ隠しのようなややぶっきらぼうな口調だったけれど、それでも言葉の端々から心配が滲み出ている。

 本気で心配されているのを実感して、私の不安感はようやく収まった。                                   

「…今日、部活で当番を決めたの」

 当番なんて守らないだろうと思って無視してやってしまったこと、鍵を渡せと言われたこと。顧問にお前がやるから悪いんだと怒鳴られたことまで、ぽつぽつと話した。

「もう期待すらしてない相手に言われたこと真に受ける必要ないって思うのに。…私、なんで傷ついてるんだろう」

 馬鹿みたいだよねと自嘲の笑みを浮かべると、陽仁は少し考え込んで、それは違うんじゃないと首を傾けた。

「君にとって部活の雑事をこなすのは仕事みたいなもので、毎日欠かさず手を抜かないことに一種のプライドを持ってるわけでしょ。プライドを持ってやってることを横取りされたら誰だって怒れるし傷つく。そういうことなんじゃない?」

「でも私、そんな高い(こころざ)し持ってやってないよ。やらない人たちと同類になりたくないって思ってるだけで。それに、顧問には横取りされたわけじゃないし」

「同類になりたくないっていうプライドでしょ?顧問だって、さっさと鍵を渡せばいいって要するに、横取りされたって騒ぐほどの仕事じゃないって言ってるようなものだから。お前がやるから悪いんだっていうのは自分の管理不足どれだけ高い棚に上げてるんだって話だし、普通に論外でしょ」

 普段の口調に戻った陽仁は、顧問や同級生の部員ごと私の葛藤をばっさり切り捨てていく。

 あまりにもあっさり切り捨てられていくので、何に悩んでいたのか分からなくなって、なるほど、確かにと頷くことしかできなかった。

「特に悩む必要もなければ引け目に思う必要もないってこと。ってことで悩み事はなくなった?」

「うん。なんであんなに悩んでたのか分からないくらいに」

 ふふっと笑う私に陽仁は頷いて、じゃあ帰ろうか、荷物持ってくるからここで待っててと言った。

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