ドライヤーはめんどくさい
だがすぐに、すうっと女が消えていく。姿が見えなくなったところで、苦しげだった伊藤の呼吸が正常に戻った。九条は辺りを見回すが、部屋の空気感も戻ってしまっており、霊がいなくなってしまったのは間違いないようだった。九条がすぐさま部屋の電気をつけると、その眩しさで顔をしかめながら伊藤が目を覚ます。
「うーん……?」
「伊藤さん?」
「……え? どうしたんですか?」
彼は寝ぼけ眼で上半身を起こした。あまりに普通のトーンで話すので、九条は呆れたように彼に言う。
「あなた、あんなに苦しそうだったのに何も覚えてないんですか?」
「え、僕苦しそうでした?」
「……鈍感であることはいいことでもあると思っていましたが、レベルが違いますね。どうなってるんですかあなたの鈍感さは」
「待ってください、てことは何か来たんですか?」
おびえた顔でそう尋ねてくる伊藤の質問に答えず、九条はずいっと顔を彼に寄せた。そして、人差し指でそっと首を撫でる。
「増えてる……」
「へ?」
「首に巻きついている髪の毛が、増えています」
それを聞き、伊藤の全身に寒気が走った。自分では何も触れることが出来ない、でも確実に苦しめている謎の髪の毛。混乱するように伊藤は言う。
「僕、普通に寝て、今さっき電気を付けられるまで何も感じてませんでしたよ!? 熟睡してたんです、悪夢を見るわけでもないですし……」
「つい先ほど、女が現れました。どこかというと、あなたのタオルケットの中にです。気が付いたら寝ているあなたの体にしがみついていたんですよ」
九条の説明を聞き、伊藤は絶句する。普段なら一番心休まるであろう自分のベッドが、突如恐ろしい物に見えた。見知らぬ女に抱き着かれながら、このベッドで寝ていたというのか。
……もしかして、今までも?
九条は頭を掻く。
「目的を聞き出そうとしましたが、残念ながら聞けませんでした。相手が会話すら出来ない状態のようです。霊は怒りや悲しみ、恨みなど、とにかくあまりに強い念を持っているとすぐに会話が成立しないことがあるんです」
「じゃ、じゃあどうするんですか!?」
「やはり情報が何より大事です。相手のことを知った上で話しかけると、効果はまるで違いますからね。朝になったらすぐに動きましょう」
「……はい」
「私は録画したものを見てみます」
「ぼ、僕も見たいです」
「あまりお勧めはしませんよ」
それでも伊藤はベッドから降りて九条の隣に並び、モニターを眺めた。ところが、録画した映像は九条が立ち上がったところからプツリと切れており、肝心のシーンはまるで映っていなかったのだ。
九条は深いため息をついた。
「力が強い霊だと、こういうことはよくあります」
「……」
「一応録画は続けますが、映る可能性は低いかもしれません。仕方ないですね、とりあえず朝まで待ちましょう。もう一度寝てていいですよ」
「僕、さすがにもう眠れないかと思うんですが……」
真っ青な顔で伊藤はそう言った。知らぬ間に女がベッドに入り込んでいたなんて真実を知ってしまえば、睡眠すら恐ろしいものになってしまうのはごく普通の感覚だろう。九条も頷いた。
「まあ、そうなりますよね。でも体力が落ちるとよくないですよ、隙が出来るのでなおさら霊がやりたい放題になるかも」
「ひぇ」
「眠れないとしても、横になっててください。電気は付けたままでいましょう。少しでも眠れたらラッキーぐらいの気持ちで」
そう提案された伊藤は素直に受け入れた。とはいえ、もうベッドを使う気にはなれなかったので、床に枕を置いて寝そべる。タオルケットも嫌だったので、クローゼットにしまってある冬用の毛布を敷いた。
九条の隣にいるというだけで、少し恐怖心が薄れた気がする。煌々と光る電気を見ながら、果たしてどうしてこんなことになってしまったのだろう、と頭を悩ませた。
引っ越しのタイミングで首に苦しさを覚えたのだから、このマンションが原因であることは間違いない。
一体、ここで何があったというのか?
伊藤がふと目を覚ますと、カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでることに気が付いた。すぐに時計を見てみると、八時を指していた。
「あ……いつの間にか眠ってたのか」
朝方まで眠れず起きていたのを覚えていたが、知らぬ間にうとうとしてしまっていたらしい。体を起こすと、毛布が敷いてあるとはいえ床で寝たためか背中が少し痛んだ。そんな彼に、声が掛かる。
「おはようございます」
「九条さん! おはようございます」
見れば、九条は昨晩のように壁にもたれたままの状態でいた。眠そうな顔は全くなく、初めて事務所で出会った時のだらしない雰囲気は一切なかった。
「もしかして、九条さんは徹夜ですか……?」
「まあ、何か出たらすぐに動かないといけなかったので」
「す、すみません! 僕だけ寝てて」
「寝てる時こそ霊がやってくるので、あなたは寝るのが仕事ですよ。まあ、あれ以降は何もなかったですがね」
もう女が現れなかった、ということにほっと胸を撫でおろした。いやでも、出てきた方が解決も早くなるのだろうか? 複雑な思いだ。
伊藤は痛む背中をさすりながら九条に言う。
「とりあえず準備して、九時ぐらいになったら行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」
そのまま伊藤は身支度を整え、食パンを焼くだけの簡単な朝食を作った。(九条はやはり何も手伝わなかった)と、九条は昨日と同じ格好なのに気が付き、伊藤は提案する。
「よかったらシャワー使ってくださいね。着替えとかないんですか?」
「はあ、ないです」
「僕のを貸し……サイズが合いそうにないな」
九条はそれなりに身長が高い。着れないこともないだろうが、確実に似合わないことが分かるので、安易に貸しますとは言えなかった。
「っていうか、こうして仕事で泊まり込みすること結構あるんじゃないですか? 車に着替えとか積んでおけばいいのに」
「めんどくさいです。以上です」
「……歯ブラシ、新しいのあるから貸します」
とても分かりやすく納得できる答えだった。まだ知り合ったばかりだが、九条という人間がかなりマイペースで変わった人間であることはすでに分かっている。着替えを用意しておくことすら、彼にとっては手間なのだろう。もしかしたらポッキーを食べること以外、欲がないのかもしれない。
九条は伊藤から受け取った歯ブラシとバスタオルを借りて浴室に向かった。まるで泊まりに来た友達か、もしくは恋人のような流れに伊藤は呆れるが、気を遣わなくていいのはありがたい、と思っていた。むしろ、九条の世話やツッコミで気が紛れているところがある。
パンを食べ終わった皿を片付けていると、少しして九条が風呂からぬっと現れた。温まったせいか頬が少し紅潮し、髪が濡れていた。その姿が、彼の無駄に美しい姿に色気を与え、破壊力がすさまじい。伊藤も一瞬息を呑んでしまったほどだ。
(黙ってると本当にかっこいい人だなー。女性に困らなそう)
そんなことを考えつつ、伊藤は濡れたままの九条の髪を見て気を利かせた。
「あ、洗面所の下にドライヤー入ってますから、使ってくださいね」
「いりません。面倒なので」
「……えっ、でも今から」
出かけるんですよね? そう尋ねるより前に、九条が続ける。
「夏ですし、普段から髪なんて乾かしません。伊藤さん、ドライヤー持ってるなんて凄いですね。しっかりしてます」
ドライヤーを持ってることがしっかりしてる??
頭の中が疑問で溢れかえる。普段から濡れたままで出かけるということか? あのいい方では、九条はドライヤーを持っていない? そりゃ今は夏だが、冬は??
あまりに訊きたいことが多すぎて、結局何一つ口から出てこなかった。これほど変わった人間を見るのは初めてのことで、伊藤はただ唖然としてしまったのだ。
九条はバスタオルで髪を乱暴に拭くと、時計を見上げて伊藤に言う。
「さて。そろそろ行きましょうか」
「……九条さんって、彼女いたりするんですか? ドライヤーないって言ったら相手、怒りません?」
「交際相手はいません。そういえば、今までうちに女性を泊めたことはありませんでしたね……女性は髪が長いから乾かさないと辛いでしょうね。大変です、私は男でよかったです」
男でも髪を乾かすんですが?
……なんて突っ込みは出来ず、伊藤は黙る。そんな彼を気に掛けるそぶりもなく、九条はすぐに玄関へ向かって行ったので、慌てて出かける準備をした。伊藤は九条と違い、身だしなみぐらい軽くチェックするし、鍵も持って出なくてはいけないのだ。
部屋を出た時、隣から物音がしたので、伊藤と九条はそちらを見る。すると、隣人が丁度外に出てきたタイミングだったのだ。
中から現れたのは、二十代前半ぐらいの若い女の子だった。さらりとした茶色の髪は丁寧に巻かれており、メイクもしっかり施してある。色白で目がクリっとした、一般的には可愛い部類に入る子だった。
伊藤はこのマンションに入居した際、丁寧にも隣人にあいさつに行っている。角部屋なので、訪ねたのはこの女性の部屋のみだ。苗字は戸谷という名で、一人暮らしをしている社会人、ということは雑談で聞いていた。基本的に愛想のいい女性で、会えば挨拶を交わし、『いい天気ですね』ぐらいの雑談をする関係だった。
戸谷の姿を見て、伊藤は心の中でガッツポーズを取った。昨晩、九条はこのマンションの住民にも話を聞いてみたいと言っていた。隣人に話を聞くのが一番望ましいではないか。