来る
「凄いですね。私ならそううまく行きません」
「そうですか?」
「初対面の人間には怖がられることも多いです。あと動物にも嫌われます」
「……」
確かに、この人まだ一度も笑ってるところを見たことがないぐらい無表情だもんなあ。イケメンだから、なお真顔に迫力があるし、人によっては近づきがたいと思うかもしれない。そう分析しつつ、伊藤は話をもとに戻す。
「というわけで、その人たちに聞いてみませんか?」
「良案です。自分の家の近所で何か事件があれば、昔の事でも必ず覚えているでしょうからね」
「決まりですね! 話を聞きに行きましょうか! ……と、言いたいところですが」
伊藤はちらりと窓の外を眺めた。レースのカーテンから、赤色がさしている。時刻はもうすぐで十八時になろうとしていた。伊藤の言いたいことが分かったのか、九条がため息をつく。
「訪問して話を聞くにはもういい時間になってしまいましたね。特に高齢の方は夜も早く休む方が多いので……明日、伺うことにしましょうか」
「それがいいですね」
「それともう一点、このマンションの住民にも話を聞いてみたいのですが」
「住民、ですか」
九条は頷く。
「他の部屋の人間も、怪奇現象を体験していないとは言い切れません。もし、土地自体に何かあるとすれば、むしろ他でも何か起こっていると考えるのが普通です。まああなたは特別引き寄せやすい体質があるとはいえ、住み始めたのは一か月前。このマンションが建って五年の間、あなた以外に何も現象が起こらないのは変です」
「確かに」
伊藤は唸って納得した。だがすぐに腕を組んで首を傾げる。
「部屋は結構埋まってると思いますよ、空室が多いわけじゃないです。住んでるのは一人り暮らしが多いと思います、たまに夫婦とか……。さすがにまだ住民は顔見知り程度ですねえ」
「確かに、見た感じ部屋は埋まってそうでしたね。ちなみにお隣はどのような方ですか?」
「女性ですよ、同じ年くらいの女の子。会って何度か挨拶したことがあります。普通に明るくて可愛らしい人で、おかしい様子はありませんね」
「女性、ですか……一度話を聞いてみたいですね。でも今から訪問もちょっと」
「これも明日ですかね」
二人は翌日の予定を簡単に決め、話を切り上げた。伊藤はパソコンをしまい、空になった九条のグラスに水を入れながら、彼がここに泊まっていくということを思いだした。一人暮らしを始めたばかりの彼の部屋には、泊まる用の布団なども何もない。
「ていうか、うち布団とかないですよ。九条さん持ってますか?」
「いえ、別に床で大丈夫です。私は寝なくてもいいくらいですから。伊藤さん、あなたはしっかり眠らなくてはなりません」
「ええ、九条さんが起きてるのに僕だけ寝られませんよ」
伊藤が困ったようにそう言うと、九条がどこか声を低くして答える。
「いいですか。あなたは引き寄せやすい。そんなあなたが眠る、となると、どうなると思いますか」
「へ?」
「人間、眠っている時が一番無防備なんです。狙っている獲物が寝ている時に、敵はやってくると思いませんか」
ひゅっ、と伊藤の喉が小さく鳴る。つまり、彼が寝ている時こそ霊が現れる可能性が高いということだ。
一気にドキドキと緊張してくる彼に対し、九条は涼しい顔をしながら部屋を眺めた。
「一体どんな者が現れるのか……楽しみですね」
二人は伊藤が簡単に用意したインスタント中心の夕食を食べ、(九条は驚くほど何も手伝わなかった)伊藤は一人シャワーを浴びた後、早々にベッドに入った。電気を暗くし、タオルケットを体に掛けた後、一人静かにため息をつく。
ぼんやり見える天井を眺めながら、この不思議な状況を思い出し、今更ながら首を傾げる。
とんでもない一日だったし、なぜこうなっているんだっけ。
勇気を出して、心霊事務所などという怪しげなビルに行ってみた。思ったより普通のところで、そこにいた九条という男の力は本物らしいとすぐに分かった。
だが事件はそう簡単には片付かず、この部屋には何かがいるということだけが分かり、調査のために今日会ったばかりの男が泊まることになっている……。
伊藤はちらりと横を見てみる。暗闇に慣れてきた目はぼんやりと反対側の壁にもたれている男の姿をとらえた。九条は寝るわけでもなく、ただじっと座り込んでいる。さすがに、この闇の中では表情までは分からない。
今更ながら、伊藤は自分の行動が軽薄だったのではないか、と心配になってくる。初対面の人間を家に招き入れ、泊りまで許可してしまった。もし自分が寝ている間、彼が何かを盗んでいったら? 初めからそういうのが目的だった可能性も……。
そこまで考えたが、すぐに頭が冷静になり、生暖かい目で九条を眺めた。
ありえないな。だったら、もう少しまともな人間のフリをしてこっちをもっと安心させようとするだろう。あんなど天然な性格、演技で出来るわけがない。
見つめていたシルエットが、何やらごそごそ動く。どうしたのかと思っていると、暗闇の中で『ぽきっ』という音がしたので、ああ、あのお菓子を食べているのか、と分かった。ほら、緊張感の欠片もないあの人間が、詐欺や泥棒が務まるとは到底思えない。それに、うちには金目の物は何もない。
伊藤はそう結論付け、九条に背を向けて目を閉じ、寝る準備へと入った。すぐ近くに人がいるという普段と違う状況は、入眠の障害になるかと思ったが、疲れもあったのか彼はすぐに寝息を立て始めた。
マンション前の道を車が通り、その音が微かに聞こえる。他の住民の足音らしきもの、エアコンの稼働音などの音の中で、九条がまたぱくりとポッキーを頬張った。伊藤からは規則的な寝息が聞こえてくる。彼は退屈そうな顔もせず、じっと時間が過ぎるのを待っていた。時折ちらちらと伊藤の様子を観察し、口寂しいときにはお菓子を頬張るだけだ。
それから数時間が経過し夜も更けた頃だった。九条が近くに置いてあった新しいポッキーの箱を開けようと手を伸ばした時、ぴたりと動きが止まった。
彼の眼光が鋭くなる。
ゆっくりと部屋の出口を眺めた。第六感が、何かを感じ取っている。先ほどまでとは違った嫌な空気感で、つい眉を顰めた。いつの間にか全くの無音状態になっており、この部屋だけ違う空間へ飛ばされたような感覚だった。
(何が来る?)
九条はちらりと、設置してあるカメラを見た。小さな赤いランプが点いており、ちゃんと録画状態であることが分かる。暗視機能がついているので、暗くても撮影は出来るようになっている。それを確認し、再びドアを注視した。
すると、カタカタと小さな音が響いてくるのに気が付く。ドアが揺れているのだと分かった。風に煽られているように小刻みに動いているのだ。だがもちろん、風など吹いていない。九条は息をするのも忘れて見つめ続ける。
ふいに、ドアの動きが止まる。
ついに来るか、と身構えるも、それ以降何も起こらない状態が続き、九条は首を傾げた。不穏な空気感だけは残っているが、一向に相手が姿を見せないのだ。
……何かがいるのは間違いない。
九条は伊藤の方を見てみる。タオルケットが盛り上がっており、寝返りでも打ったのかそれがもぞもぞと動いていた。この不穏なオーラに気付かずに寝ていられるのは、やはり伊藤が霊を視る才能がゼロであることを示しているな、と九条は思う。
だがすぐに、はっとして立ち上がる。
ベッドの上のタオルケットが、徐々に大きく膨らんでいく。さらには、先ほどまで規則的だった寝息が途切れ途切れになっており、苦しそうに聞こえてきたのだ。
九条がすぐに伊藤のそばへと駆け寄る。
頭から足まで、すっぽりと白いタオルケットが覆っていた。その中がわずかに動いており、少しずつ盛り上がってきている。九条はじっとそれを真剣な目で見つめた後、長い指でそっとタオルケットを引いてみる。
まず、伊藤の髪が見え、次に額が出てくる。彼は眉間に皺をよせ、どこか苦しそうにしている。そしてタオルケットが顎まで下がったところで、そのすぐ下に真っ黒な後頭部が出現した。
艶がなく、痛んだ黒髪は大きく広がっていた。だが、九条にはただ黒い塊が伊藤の上に覆いかぶさっているように映る。なんとなく女性だ、ということは直感で分かった。
(とんでもない物に好かれているな)
彼は心の中でそう苦々しく呟いた。寝ている間に布団の中でこれほど密着してくる霊だなんて、執着心が強く、普通の霊ではないだろう。昼間に見た、伊藤にしがみついていた霊たちは可愛いものだった。
そこで九条は初めて声を出す。
「あなた、そこで何をしてるんです」
その声に、相手はピクリと反応した。それを確認したあと、九条はなおも続ける。
「その人に何がしたいんですか? 何か恨みでも?」
女は動かず、そして何も答えなかった。簡単には教えてくれないようだ。
我慢強く待ち、何度も質問を繰り返すが、状況は変わらない。その間、伊藤は苦しそうに唸っている。これ以上は伊藤の体によくないと判断した九条は、しびれを切らしてついにタオルケットを全て剥がした。
体をまっすぐにさせた伊藤を、女がしっかり手足を絡みつかせて抱きついている。あまりに異様なその姿に、九条も一瞬息を呑んだ。