常備?
しばらく車を走らせると、一軒のマンションが見えてきた。九条はすぐ隣にあった有料駐車場に車を停めると、二人で歩き出す。じめっとした、暑い空の下だった。それでも九条はほとんど汗をかくこともなく、涼し気な顔をしたまま歩き、伊藤は不思議な人だなあと改めて思った。
マンションはよくある鉄筋コンクリート製のものだ。築五年なのでまだまだ新しい。単身者向けのつくりだが、夫婦もしくは同棲している男女も見かけることがある。子供は見たことがない。
会社からも通勤しやすく、綺麗、部屋もそこそこ広いという好条件だったので、伊藤はすぐに契約した。周りも薬局やコンビニが徒歩圏内にあるので住みやすい。今回の件がなければ、このマンションに不信感などまるで抱かなかっただろう。
お洒落なエントランスを通り、エレベーターを呼び出す。十三階建ての五階、それが伊藤の部屋である。
「五階なんですよ。角部屋なんです」
「なるほど」
乗り込み上昇していくと、すぐにたどり着き扉が開いた。そのまま廊下を少し歩き、角部屋へとたどり着く。
ポケットから鍵を取り出しつつ、伊藤が言った。
「ちょっと散らかってますけどすみません」
「お気になさらず」
「よいしょっと」
ガチャリと戸を開ける。なんてことはない、普通の玄関がまず見えた。
スニーカーが二足並んでいる。隣には茶色の靴箱があり、その上には芳香剤が置かれていた。
短い廊下には扉が二つ。浴室と、トイレだ。それから小さいがキッチンもある。シンクには使い終わったグラスと皿がそのまま置いてある。いくつか調味料があり、伊藤は料理もする男だと分かる。
その先を通るとそこそこ広い部屋があった。散らかっている、と本人は言ったが、男の一人暮らしでは十分片付いている方だった。
広さは十二畳。全体的に青を基調とした爽やかな部屋だった。床には読んでいたのかスポーツ雑誌と少年漫画。ベッドの上には朝脱いだのか灰色のTシャツが乱雑に置いてあった。
伊藤はそのシャツを手に持ち、洗濯機に入れようかと振り返ると、九条がじっと部屋中を観察しているのを見つけた。声を掛けてはいけなさそうな雰囲気だったので、忍び足で洗面室まで行く。戻ろうと踵を返すと、真後ろに九条が来ていたので驚き飛び上がった。
九条は悪びれもなく浴室の中までしっかり観察している。真剣なまなざしそのもので、さっきまでの彼の様子とはまるで違ったので、なんとなく伊藤の背筋が伸びた。
長く沈黙が流れた後、突然九条が低い声を放った。
「あなた、ここに住んでいて何も感じないんですか?」
「えっ? 何も? 住みやすいところだなあって思ってます」
「鈍感も才能ですね」
呆れたように、でも感心したように九条は言った。伊藤は鈍感と呼ばれたことにややむっとし、九条の人を気遣わない言い方に呆れる。
「鈍感っていうか、普通なんじゃないですか? 九条さんが見えるだけで」
「まあ、それもそうかもしれませんが……見えなくとも、この部屋は嫌だと感じる人間は結構多いと思いますよ」
「え、それほど凄いんですか?」
「結構凄いです」
九条のストレートな感想に、伊藤は顔をしかめる。毎日過ごしてきた家をこんな風に呼ばれて、いい気分になる人間はいない。やはり、この部屋が原因だったようだ。
九条は落ち込む伊藤を励ますそぶりもなく、辺りを見回しながら淡々と続ける。
「ですが、正体はまだ見えません。ただ嫌な気が部屋中に詰まっているだけです。もしかすると、向こうも警戒しているのかもしれませんね……少し様子を見てもいいですか」
「はあ、どうぞ」
「部屋内を撮影しても?」
「撮影ですか?」
きょとんとして尋ねると、九条は頷いた。
「霊は高性能なカメラに映ることも多いんです。なので私は、調査中は可能な限りその場所を撮影することにしています。勿論調査が終われば消去しますし、それでも伊藤さんが嫌ならやりませんが」
「いえ、別に構わないです。そういうやり方なんだ、って感心してただけで」
「じゃあ早速やりましょう。手伝ってもらえますか」
九条はサラリとそう言ったので伊藤も反射的に頷いたものの、依頼主を平然と使うそのやり方はいかがなものか、と呆れた。別にいいけどさ、手伝うけどさ。
二人は一度九条の車へと戻った。車のトランクには、カメラやモニターなどがぎっしり積んであり、それを男二人で部屋まで運び入れた。一つ一つが重量があり、伊藤は息を乱しながら必死になって体を動かす。
ようやくすべての機材を部屋に入れ、九条はカメラを部屋に設置し始める。地べたに座り込み、何やらコードをいじりながら言う。伊藤は並んだ機材たちを見渡しため息をついた。
「凄いですねー! 想像以上に本格的です」
「必ず映るというわけでもないですがね。相手の力が強いとこちらのカメラが故障したりもしますし……」
「ホラー映画でよくある展開ですねえ」
「言いましたが私は基本シルエットしか見えません。ですが、こうしてカメラに映った物はさすがに認識できます。あなたもそうだと思いますよ、テレビ番組の心霊映像に映る霊は見えるでしょう?」
「えっ。ああいうのってヤラセじゃないんですか?」
伊藤の中では、ああいったものは基本故意に作られたもので、九条のような『本物』から見れば鼻で笑ってしまうような代物かと思っていたのだが、九条は首を横に振る。
「本物もあります。まあ、九割以上は偽物ですがね」
「そうだったんですか……本物もあるんですか……」
伊藤はそう呟きながら少し寒気を覚えた。今まで、そういう類の番組は人並みに見てきたが、基本的には友人と盛り上がるために見ていた、ということがほとんどだ。それも、本物とは信じていなかった。
でも、今まで見てきた中にも本物があったのかと思うと……今更、恐怖が襲ってくる。
「これからは軽率に見るのやめます……」
「ほとんどは視聴者を喜ばせるために作られたものですから、面白いですよ。ちゃんとプロが選定しているので、見ただけで呪われる、なんて物はありませんしね。あ、そのコードください」
「そういうものですか……どうぞ。あ、これはこっちにつなげればいいんですか?」
「お願いします」
自然と会話が途切れ、伊藤は分かる範囲でコードを繋げていく。二人は黙々と作業をし、部屋中が映るように設置を完了させる。一気に部屋中が狭くなり、伊藤は普段の自分の部屋の変わりように変な気持ちになった。
九条は立ったままぐるりと部屋を見て回り、満足げに頷いた。
「あとは相手が動くのを待ちましょう。可能なら私、泊っていってもいいですか?」
「えっ!? ま、まあ別にいいですけど……明日休みだし。でも大変ですねえ、いつもこんな風に泊まり込みで仕事するんですか?」
「基本的には。じゃあ、伊藤さんは普段通り過ごしてもらっていいですよ。私のことはお気になさらず」
九条はそう言って床に座り込んでしまう。そうは言われても、初対面の人間が同室にいるのに、普段通りくつろげるわけがない。伊藤は頭を掻いた。
そこで、まだ客に何も出していないことを思いだし、キッチンへ立って戸棚を覗いた。
「九条さん、コーヒーと紅茶どっちがいいですか?」
「どちらもあまり好きではないので、水で」
(ほんとマイペースな人だな……)
伊藤は冷蔵庫からミネラルウォーターを出しグラスに注ぎ、九条の近くのテーブルに置いた。九条は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえいえ。気付くのが遅くてすみません」
「あ、そういえばポッキー買ってくるの忘れました。伊藤さん、あとでお金払うのであなたの分けてもらっていいですか」
早速グラスの水を飲みながら九条が言ったので、伊藤は一瞬意味が分からずぽかんとする。だって、僕の分のポッキー、ってなんだ?
「え、僕ポッキーなんてないんですけど……」
伊藤が答えると、九条が目を見開いて彼を見た。今日会って初めて、九条は表情を変えたかもしれない。
「家にポッキーないんですか?」
「ないですね。あ、チョコレートならありますよ」
「家にポッキーないんですか!?」
「だからないですよ!? もしかして、日本人は家に必ずポッキーのストックがあるものだと思ってたんですか!?」
伊藤の答えに、九条は絶望したようにがっくりと頭を垂れた。その様子に伊藤はただ引いている。
「知ってましたけど九条さんってあのお菓子好きですよね」
「あれがなくては私、働けないので……」
そんな重要なものをなぜ忘れてきたんだ、とツッコむのは置いておき、伊藤はため息をつきながら提案した。
「すぐ近くに薬局がありますから、買いに行きましょうか。ちょうど僕ティッシュが欲しかったので」
すると九条は頭を持ちあげ、すっかり気合の満ちた表情で答える。
「いいアイデアです。行きましょう」






