全ての始まりはここから
一度だけ尋ねたことがあるビルの五階。エレベーターで上がった後、看板も表札もなにもないシンプルな扉の前で、伊藤は深呼吸をした。
あれから一か月が経つ。だが、未だ九条から連絡が来ることはなかった。直接話したいこともあった伊藤は、休みの日に事務所に訪れたのだ。
一応、ノックをする。だが返事はないだろう、と分かっていた。案の定相手から何も返っては来ない。
「調査中じゃないといいけどなあ」
そう呟き、ドアノブに触れてみると、扉が開いた。鍵はかかっていない……ということはもしや、外出中? と、普通とは逆のことを思う。
だが予想外なことに、留守ではなかった。中には、ソファに横になり寝息を立てる男がいたからだ。開いてることの方が少ない事務所なので、九条に会えたのはラッキーとも言える。
「九条さーん。入りますよ!」
伊藤は一応、声を掛けて中に入る。やはり九条はすやすや眠っており、呼びかけには全く答えなかった。ソファの横に歩み寄った伊藤は腕を組んで考える。
「うーん、この人なかなか起きないんだよなあ。調査の時はよく時間通りに起きてきてたな」
感心しつつ、彼はどうやったら効率よく起こせるのか、と考える。一旦普通に肩をゆすって声を掛けたが、案の定全く反応しない。初めて来た日のようだ。
困った伊藤だが、ふとそばに食べかけのポッキーの袋があることに気が付いた。それを見てピンとくる。
一本取り出した伊藤は、なんとそれを九条の口に突っ込んだのだ。
「九条さん! ポッキーですよ、ポッキー美味しいですよおおお!!」
はたから見たら、なんて馬鹿げた起こし方だろうと呆れられるだろう。ちなみに、寝ている人間の口に食べ物を入れるのは危険でもあるので、他の人間は真似しないように。
大きな声で叫んで少し経ってから、九条の瞼がピクリと動いた。そして、次に口がもぐもぐと咀嚼を始めたのだ。
「うう……ん」
「あ、起きましたか? 九条さん!」
九条はぼんやりした目で伊藤を見上げながら、ポッキーを少しずつ食べていく。そして全部口に入れたかと思うと、むくりと上半身を起こした。
伊藤を眺めつつ、九条は呆れたように言う。
「ふぁなた、すごいでふね」
「食べ終わってから言ってください」
「あなた、凄いですね。少し見ない間に、またそんなに引き連れて」
その言葉にハッとする。そういえば、お寺を紹介してもらうと言っていたが、結局それどころではなくなっていた。最近また体調不良が出てきたなと思っていたのだ。
いつぞやのように、九条は伊藤と目を合わさず誰かと会話を始める。やや眠そうに、でも確実に誰かと話している。
「あなた、そんなに強くしがみついてどうしたんですか……ああ、この人びっくりするくらい鈍感だから時間の無駄ですよ。他を当たってください。そちらの方は? 同じですね。あなたのその叫び声全く聞こえてませんから、諦めた方が早いですよ。あなたは? って、あなた前もいませんでした? だから、人違いです」
徐々に肩が軽くなっていく。ものの数分で、伊藤は全身がすっきりするのに気が付いた。九条はふうと息を吐き、近くにあったポッキーを手に取る。
「終わりました。今回のこれは、料金は結構です。私がまだ寺を紹介できていなかったせいなので」
「あ、ありがとうございます……! 楽になりました!」
「すみません、依頼料のことですよね。どうぞ座ってください。あの後、他の案件に付きっきりで時間が取れなくて。一応請求書は仕上がっています。えーとこっちに」
伊藤が向かいのソファに腰掛けると、九条はめんどくさそうに立ち上がり、窓際のデスクに行って引き出しを漁る。そこから紙を取り出し、伊藤に差し出した。
「これですね」
「あ、どうも……」
そう言って貰った請求書を開いて、伊藤は固まった。
(……思ってたよりこれは……た、大変だ……)
想像以上の額が、そこに記されていた。
最近新しいところに引っ越したため、まとまったお金が飛んでいった。そこへさらに、この請求書。まだ社会人三年目の彼にとっては泣きたくなる状況だ。
だが、すぐにしょうがない、と納得した。九条は寝る間も惜しんで伊藤についてくれていたし、寺の紹介もしてくれる。息苦しい症状は全くないので、間違いなく事件も解決している。再発ゼロ、という噂は間違いじゃない。
ここは素直に払おう。親にお金を借りねばならないかもしれない。
「はい、必ず振り込みます……」
「あなた、新しく引っ越すと言ってましたよね。厳しいなら分割でもいいですよ。無事引っ越せましたか?」
九条に尋ねられ、伊藤は素直にここ最近の出来事を説明した。引っ越しは無事完了したこと、その前に戸谷が会社にやってきてしまったこと。九条は戸谷についてはさすがに目を真ん丸にして驚いていた。
「てなわけで、会社にも来ちゃったけど、いないって帰されてからは来てないみたいです。僕もかなり動くのに慎重になってて、裏口を使用したり……新しいアパートが漏れても大変なので、帰り道も遠回りしたりして気を付けています」
「それはなんといいますか……大変ですね」
「九条さんは大丈夫ですか? 戸谷さんは僕より、最後は九条さんに想いを寄せていたと思うので……僕を訪ねにきたのも、九条さんの情報が欲しかったからだと!」
「私は大丈夫ですよ。何も問題ないので、漏れていないと思います」
その言葉に、伊藤はほっとする。とりあえず、九条に被害が及んでいないことを知り安心だ。これ以上彼に迷惑はかけられない。
戸谷が諦めてくれれば、もうこれで怖い物は何もない。ただ……また他の誰かを好きにはなるだろう。また得体のしれない何かを入れた差し入れを、他の男にも渡すかもしれないと思うと、心底ぞっとする。
親しくない人間の手料理は、食べない。これが一番だと、痛感した。
九条は憐れんだ目で伊藤を見る。
「散々でしたね。あなたは何も非がないのに大変でしたね」
「ま、まあ……」
「職場にまでやってくるとは。何を思ってるんでしょうね……諦めてくれたならいいですけど、それに怯えながら働くのも大変でしょう。しかも営業だというのに」
「あ、でも僕、もう辞めるんです」
伊藤の言葉に、九条は目を見開いた。
「退職されるんですか? やはり、戸谷さんに職場がばれていたのはきついからですか」
「それは決め手ではありましたけど……それより前に、やめようかなとは思ってたんです」
そう言って、伊藤は持っていたカバンから一枚の紙を取り出した。テーブルに置き、九条の元へ滑らすと、それを見た九条の表情が固まった。
珍しい、彼もこんな顔をするんだな、と伊藤は笑う。
「雇ってもらえませんか?」
九条は履歴書を、呆然と眺める。
九条の働きぶりを見て、ここでやってみたい、と伊藤は強く思った。迷いもあったが、桜井の言葉で覚悟が決まった。若いうちにやりたいことをやってみてもいい。
自分は霊は見えないし感じないけど、その存在を身をもって確認している。浄霊するまでの道のりで、何か協力できることはないか、と思うのだ。
履歴書を手に持ち、九条が不思議そうに言う。
「……正気ですか? こんな怪しいところに」
「あはは、怪しいって自分で言っちゃった」
「もちろん私は助かりますよ。でも、今まであんな大手で働いていた人が、こんな小さなところでやっていくつもりですか?」
「永遠には勤めないかもしれないですねえ。例えば結婚したり、子供が生まれたーとかなれば、さすがに転職するかもしれません」
「結婚するまでここにいるつもりですか?」
「しなければ定年までいるかもしれません」
にこにこ答える伊藤に、九条はなぜか呆れたように深いため息をつく。だがすぐに、顔を持ち上げて笑った。
「あなた……変な人ですね」
目を細めて面白そうに笑った九条に少し驚きつつ、伊藤もつられて笑う。
この人にだけは、変な人と呼ばれたくないが、まあ今は突っ込まないでおこうか。
九条は姿勢を正し、まっすぐ正面から伊藤を見ると、ゆっくり丁寧に頭を下げた。
「では、お願いします」
「はい! あ、とはいえ、まだ引継ぎで前の会社に通勤するので、正式にはもう少し先から、ってことで……」
「それは大丈夫です。そうと決まれば、社員割しましょう」
「え? 社員割?」
伊藤の手元にあった請求書を手に取り、九条は近くに置いてあったボールペンで何やら書き込んだ。覗き込むと、値段が三分の一程度に落ちていたのだ。
「え!? こんなに値引きを!?」
「いい人材を見つけられたのですから、こちらとしてもラッキーでしたよ。ああ、給与については相談しましょう。こんな辺鄙なところに来て下さったので、私もなるべく誠意を見せようと思います」
「ええ! そんな!」
「この請求書を見て、案外ここは儲かるのだと分かったでしょう?」
にやりと九条が笑って見せるので、伊藤は吹き出して笑った。確かに、いい車に乗ってたりもするし、ここは結構収入があるのだろう。
……だが、伊藤も言わせてもらおう。
「僕が来たからには、売り上げをもっと伸ばします。九条さんは色々適当すぎです。まず、こんな請求の仕方で、逃げられたらどうするつもりだったんですか」
「……」
「客の情報はもっとちゃんと取らないと。事務所の鍵も閉めるなんてことしません。九条さんが不在の時も僕が留守番して、仕事は予約制にします。あと、こういう仕事は口コミが命だと思うので、依頼が片付いた後は報告書を作成して送るのも必要かと」
「……」
「来客用にポッキーとペットボトルをそのまま出すのもありえません。小さなことですけど、仕事を増やすには印象が大事ですからね。情報収集を外部に依頼するのももったいないです。あまりに専門的だったりするのは別ですけど、出来ることは僕がやります」
「あなた、本当にしっかり者ですね」
「九条さんが適当すぎるんです」
バッサリ伊藤が言うと、九条はまた目を細めて笑った。二人はお互い、面白そうに笑っている。
九条尚久と、伊藤陽太。まるで正反対の二人。
正反対すぎて、彼らはこれから誰が見ても仲のいいパートナーになっていく。
そしてこの一年と少し後、事務所にもう一人女性が入ってくるのは、また別のお話。
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