起床
「あの~?」
ついに彼は話しかけた。
だが気持ちよさそうな寝息は止まない。ピクリとも動かず寝続けるので、伊藤は肩を揺すってみた。
「すみませーん! あの、ちょっと相談したいんですが!」
声を大きくさせて言うも、目の前の男はびくともしなかった。強く肩を叩いてみるが、それでも、まるで目が開きそうにない。その光景はどう見ても異様なものだった。普通、ここまでして起きない人間がいるだろうか。
(病気だったらどうしよう)
そう不安になるほど起きなかった。寝てるんじゃなくて意識を失ってるんだとしたら? それにしては気持ちよさそうな寝息なんだけどな。伊藤は困り果てながら声を掛け続ける。
「すみません! あの! 起きてくださーい!」
そう激しく体を揺さぶった時、男の足がずるりと揺れた。ソファから滑り落ちたのだ。その拍子に、お尻まで足に引きずられて落ちそうになったため、伊藤は慌てて男の上半身を落ちないように支えた。こうして、下半身のみ落下した格好になったとき、初めて声が漏れた。
「……ん……」
「あ? 起きた?」
男の体を必死に支えながら伊藤が言う。だが男の体に力が入った様子はみられない。伊藤に体を任せながら、黒髪を揺らす。
「うう、ん」
「あ、あの?」
「……ん?」
男が頭を持ち上げ、ついに伊藤の存在を視界に入れた。ガラス玉みたいな美しい目に、伊藤はこんな時だというのに惚れ惚れした。こんなビジュアルで生まれたら、さぞかし人生楽しいんだろうなあ。
寝ぼけているのかなんなのか、男はぼーっとした状態で伊藤を見つめ続ける。なんだか目が合っていないような感じだ。彼は寝起きのやや擦れた声で言う。
「誰ですか、あなた」
「あの、ちょっと相談したくて来ました!」
「ああ……依頼者の方ですか」
そこまで話してようやく男は自分の力で立ち上がった。やっと重い荷物持ちから解放され、伊藤はほっと息を吐く。男は背もそこそこあり、伊藤より高身長だ。
彼は無言でテーブル上にあるお菓子のごみを、ざっと手を滑らせて近くに置いてあったゴミ箱に捨てた。ちらりと見てみると、ごみ箱の中も同じようなゴミで溢れており、よほど好物なのか、と思った。
すっきりしたテーブルを前に、男は言う。
「どうぞ」
「は、はあ」
言われた通り伊藤はようやくソファに腰かける。つい先ほどまで男が寝ていたため、臀部に温かさを感じた。するとふいっと、目の前の男がいなくなる。とりあえずそのまま待っているとすぐに帰ってきて、伊藤の目の前に何かを置いたのだ。それを見て、伊藤は目が点になった。
350mlサイズのペットボトルのお茶と、ポッキーの箱。
もしや来客用に? 普通、夏ならグラスに入った冷たいお茶だとか、冬なら温かなコーヒーとか、とにかく自分で淹れたものを持ってこないだろうか。それにお茶菓子はありがたいが、箱ごとポッキーを出す人なんて初めて見た。伊藤はこの時点で、あのネットに書かれていた口コミは正しいなと痛感する。こんなめちゃくちゃなもてなし、生まれて初めてだ。
男は目の前に腰かけた。そして正面からじっと伊藤を見てくるのだが、やたりどこか目が合っていない気がするのかなぜなのか。人の目を見るのが苦手なタイプだろうか。
「ええっと、頂きます」
さりげなくペットボトルが未開封なのを確かめ、とりあえず伊藤はお茶を一口飲んでみた。ポッキーは特にいらなかった。
少し時間が流れても、まるで話が始まりそうにないので、伊藤から切り出すことにする。
「初めまして、僕、伊藤陽太と言います」
「初めまして、九条尚久といいます」
「九条さん、やっぱりこちらの責任者の方ですね」
「はい、まあ責任者と言いますか、私しかいないんですけどね」
「そ、そうなんですか」
そんな会話をしつつも、やはり九条とは目が合わない。彼は伊藤の肩らへんをじいっと見つめているだけだ。
「あの、それで九条さん。今回ネットで調べまして、ここに」
「あなたものすごいですね」
「へ?」
突然の発言にぽかん、としてしまう。
「私、ここまで背負ってる人、あまり見たことありません。レアですよ、レア」
「はい? 背負ってる、ですか?」
「肩重くないんですか? そんなに引き連れて……」
無表情で九条は言う。伊藤ははっとし、慌てて自分の肩を見た。だが無論、彼には何も見えない。
「ぼぼ、僕なんか憑いてます!?」
「はいそれはもう」
「実は昔から体調を崩しやすくて。熱出すとか、頭痛がするとか、不眠だとかですけどね。ある日霊が憑いてるって指摘されて初めてお祓いしてみたんです。そしたらすっごく楽になりまして! ただ、問題なのか繰り返す、ということなんです。それで、こちらは再発がないってことを聞いて伺ったんですけども」
「ああ……」
九条は小さくそう呟いた後、ゆっくり眉間に皺を寄せた。伊藤は不思議に思いながらも、話を続ける。
「祓ってくれたお寺の住職さんが言ってました。除霊とは霊を引き離す、みたいなことだから、すごく気に入られれば帰ってくるかもしれないって。それで繰り返しているのかなと思ったんですけど。ここはどうして再発しないんですか?」
「私に除霊はできません」
九条はさらりとそんなことを言ったので、伊藤は目を真ん丸にした。
「え!? じゃ、じゃあどうするんですか!?」
「霊の姿も見えますが、基本的には黒いシルエットのように見えます。なんとなく性別、年齢も分かるかなという程度。それに除霊する能力は全くありません。ああいったものは結局生まれ持った才能ですのでね。私は霊と会話するのを得意としてます」
淡々と抑揚なく喋る九条に、伊藤はごくりと唾を飲み込んだ。黒いシルエットすら見たことがない伊藤にとって、九条の話は別世界の物のように感じる。
「その霊がこの世に漂う理由を聞きだし、可能ならばその原因を解決します。そうすることで霊を浄霊させます」
「浄霊?」
「まあ簡単に言えば、しがらみなどを浄化させて成仏させる、もしくは無害な霊にさせることです」
それを聞き、感嘆の声を漏らした。なるほど、それで再発しないというわけか。強制的にどうこうするのではなく、霊が思い残したことを聞いてあげて満足させそ、その霊自体を浄化させる。そんなやり方もあるのだと伊藤は一人納得する。
だが九条本人は、浮かない顔で伊藤を見ていた。
そして突然、こんなことを言いだす。
「あなた何してるんです?」
「へ? 何って、話を」
「そこにいて何がしたんですか? ああ、そちらのあなたも。そんな必死にしがみついても、楽にはなれませんよ」
伊藤はびくっと体を反応させた。僕にじゃない、僕の後ろに向かって話掛けている?
相変わらず九条とは目が合わない。九条が一体何に話しかけているのか、伊藤にも分かっていた。まるで人間に声を掛けるように、九条は一人で会話を続けていく。伊藤は固く口を閉じ、静かにその状況を見守る。