訪問者
翌日、実家から出社した伊藤は、必死に仕事をこなしていた。
まずは目の前の仕事を何とか捌かねばならない。引っ越し日も迫ってきているし、新しい部屋の掃除にもいかなければならないので、今は転職より日々を送るのに必死だった。
だが彼の心の奥では、決意が徐々に大きくなっていた。
まだ動き出せていないが、引っ越して落ち着いた頃、もう一度だけしっかり考えて決めよう。後悔のないようにしたい。
そんなことを考えながら、自席に座ったままパソコンを必死に打ち込んでいた時、同僚から声を掛けられた。
「伊藤さん! なんか、伊藤さんに会いたいって人が玄関に来てるみたいですよ」
「え? 僕?」
顔を上げて予定を考え直すが、特に今日誰かと約束をしていたことはない。それと同時に、九条が尋ねてきたことが脳裏に蘇った。そういえば、まだ依頼料を支払いしていない。
もしや彼が直接?
伊藤は慌てて席を立つ。
「お名前は?」
「九条さんと言う方です」
「やっぱり! ありがとうございます!」
彼はそのまま急ぎ足で飛び出した。
エレベーターを呼び出し、待っている間に心の中で少し不満を出す。連絡先を知っているんだから、電話の一本でもくれればいいのに、何もこんな仕事中に来なくても。でも、あの人マイペースだから、何も考えてないのかなあ。
はあとため息をつきながらやってきたエレベーターに乗り込み、一階まで箱が下降していく。扉が開いたところで足を踏み出した時、彼の全身は止まった。
受付前に立っている女の後姿に見覚えがある。
小柄な身長、巻かれた茶色の髪、可愛らしいおしゃれな服装。顔は見えないものの、伊藤にとって忘れるはずのない人物。
それを見て、彼は黙って後退した。まだ開きっぱなしだったエレベーターにそのまま戻る。ちょうど乗り込んできた他の社員が、不思議そうにそんな伊藤を見ていた。
なぜだ。なぜ、彼女がここに。
ぶわっと全身の毛穴から汗をかく。例えば、謝りに来た? わざわざ職場まで? まず、自分は勤め先のことなど言った覚えはない。なぜここが分かったんだ。
だが、思えばあの部屋に貼られていた写真たちはあらゆるシーンの伊藤があった。つまり尾行されていたことが何度かあったんだろう。職場など、とっくに知られていたのでは。
でも自分はカレーを捨てたことで好意を持たれなくなったはずだ。なのに今更なぜ……
(あ……もしかして)
彼女はまだ九条を諦めていない? あれだけキッパリ振ったのに、まだ想いを寄せていたとしたら? いや、もしかしたら恨んでいるのかも。さすがに九条のことは、まだ名前ぐらいしか分からないだろう。その九条について情報を持っているのは……自分だ。
「あの? 降りないんですか?」
男性社員が伊藤にそう声を掛ける。その瞬間、戸谷がゆっくりこちらを振り返ろうとしていることに気付いた。
声すら出せなくなった伊藤は、ぶんぶんと強く頷いて見せた。
男性社員は何かを察したのか、閉じるボタンを押し、エレベーターの扉が閉まっていく。戸谷がこちらを見そうになる。早く、早く閉まってくれ。
彼女が完全にこちらを振り返るより前に、扉が閉まってエレベーターは上昇を始めた。伊藤はバクバク鳴った心臓に手を当て、深呼吸をする。
警察に相談……して何とかなるだろうか? これぐらいの被害では、恐らくよくて厳重注意だろう。逆上させかねない。
あのマンションは引っ越すことが決まっている。あとばれているのは、この会社だけだ。
(……こんなことがきっかけで、決意したくなかったんだけどなあ)
固まっていた小さな決意は、なお大きくせざるを得なかった。
職場には簡単に事情を話し、面会に来ていた『九条』という女には、伊藤という人間は在籍していないと告げ帰ってもらった。今後も伊藤には面会を通さないよう手配してくれた。
そして翌週、彼は引っ越した。戸谷が朝出かけて行ったことを確認し、短時間で引っ越しを完了させたのだ。同時に、盗聴器などの類がないかも入念に調べたが、さすがにそこまでなかったので安堵した。
新しい家の隣人は、サラリーマンの一人暮らしで、伊藤にとってはそこがまた嬉しい。今は若い女の隣人は精神的に無理だ、と思ったのだ。
そして彼はその後、職場に退職の意を告げる。これには、職場の人間がひっくり返って驚いた。変な女に好かれていることは周知の事実だったものの、まさか仕事をやめることは想像していなかったのだ。
『こんなにいい成績なのになんで?』『何が不満だった?』『あれ以降変な女は来てないし、みんな協力するから大丈夫だよ』
必死に周りは止めたが、彼の意思は固かった。『不満はないんですけど、もっといろんなことにチャレンジしてみたいと思ったんで』そう涼しい顔で言って、周りを黙らせた。
引継ぎ等もあるので、まだしばらくは働くが、その間に戸谷がやってこないことだけを祈っていた。




