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身勝手

 九条はそんな伊藤には何も言わず、未だ立ち尽くしている戸谷に向かって話しかける。


「戸谷さん。何か違う点はありますか? まあ、あなたは綾子については無自覚でしょうけどね……好きになった男性の写真を、よくもまあこれだけ集めたものです。私のものはありませんね。まだ時間が経っていないから……」


 飄々と話し続ける九条に、ふらふらと戸谷が近づいてくる。どう見ても普通ではないその様子に、伊藤は体が動かず止めることが出来なかった。今まで生きてきた中で一番の恐怖が、彼を襲っている。


「あなたは……逃げませんか?」


 戸谷がそう囁いた。九条は彼女を正面からとらえる。


「あなたこそは逃げないはず……きっと、運命だと思っています……」


 戸谷の様子から正気がまるでないことが分かる。危ない、と伊藤はすぐに思った。

 

 だが、不思議と体が動かない。今すぐ戸谷を捕まえた方がいいと分かっているのに、誰かに全身を支配されているようにびくとも動けなかった。焦りと恐怖が彼を襲う。


 ついに戸谷が九条の腕にそっと触った。愛しそうな手つきで、それはあの夜伊藤に口づけようとしていた綾子の手の動きに、どこか似ていた。何度か九条の腕をさすりながら、戸谷は小さな声で言う。


「どうか私だけを見てください……私だけを一生見ていていてください……他の女と幸せになることは、許しません」


 機械が話しているような口ぶり。だが、九条は一切怖気づかなかった。目をそらすことなく戸谷を見つめ返し、そしてきっぱりと言った。




「私はあなたが嫌いです」




 途端、戸谷の動きが止まる。九条の腕から手を離し、数歩後ずさりをした。


「私はあなたのことなんて好きではないです。他に愛する人がいます。あなたを受け入れられません。嫌いで仕方ないです」


「あ……あ……」


「触らないでください。目の前に現れないでください。私はあなたのパートナーにはなれません」


 九条のすがすがしいほどの拒絶の言葉に、わなわなと戸谷が震える。尋常ではない震え方で、顔も真っ青になっていく。伊藤はまだちっとも動けず、ただ呆然とその光景を見ているいしか出来なかった。


 次の瞬間、戸谷が割れんばかりの悲鳴を上げた。悲痛で、それでいて怒りのこもった恐ろしい声だった。全てのものを憎むような声色に、部屋全体が揺れたような錯覚に陥る。


 すると彼女の体から、黒い影のようなものがじわじわと現れたのを九条は見逃さなかった。まるで彼女の体の中にいるもう一人の誰かが体からぶれているようだ。


 戸谷は両手で顔を覆ったまま床に崩れ落ち、叫び声を上げながら涙をこぼし、口の端から涎を流した。


 九条の目が少し光る。そして、ずっと小脇に抱えていた小包を手早く開けた。


「円城寺綾子さん。あなたにはそばにいてくれる人がいます」


 中から何かを取り出す。それは人型をした白い人形だった。頭と手足がある、ということがどうにか分かるほどの簡単な作りで、顔も書かれておらず中に綿があるかどうかも不明だった。


 だがそれが袋から出た瞬間、ふわりと一人の男が現れた。半分透き通った男は二十代前半ぐらいの若い男で、黒髪短髪の爽やかな顔をした人だった。


 戸谷の目の前に彼が立ったとき、ずっと止まらなかった悲鳴がぴたりとやんだ。彼女は驚愕の目で突然現れた男性を見上げる。


「義雄……」


 戸谷の口からその名が出たかと思うと、ぶわっと彼女の体から違う人間が現れた。長い髪をした円城寺綾子だった。綾子が戸谷の体から離れた後、戸谷は電源が切れたおもちゃのようにすとんと床に倒れこんでしまう。


 綾子はわなわなと義雄を見つめる。義雄はそれに答えるように、にっこりと笑った。


『義雄!』


 綾子はそのまま義雄に抱き着くと、口角を不自然なほどに持ち上げ、まるで幸せそうとは比喩出来ない卑しい笑いを浮かべて叫んだ。


『義雄が来てくれた、義雄が私を迎えに!』


 もはや悲鳴のような喜びの声に義雄はひるむこともなく、ただ優しそうに笑っている。そんな彼を綾子はギラギラ光らせた目で見つめながら、頬を撫でる。


『あなたがやっと来てくれたなら……私はもうどうなってもいい』


 そう言って、義雄の口にキスを落とした。愛の表現とは到底思えない、恐ろしさを感じる振る舞いだった。相手のことなど何も考えない、身勝手でどこか暴力的なキスだった。


 満足げに笑った綾子は、そのまま義雄に抱き着いたまま自然と消えていく。最後まで離してなるものか、と義雄の体を爪が食い込むほど強く抱き、瞬きもせずに義雄だけを見つめていた。


 静かになった部屋に、苦々しい顔をした九条が立っていた。


 最後の最後まで、自分の事しか考えない恐ろしい女だ、と九条は吐きそうになる。同情するところなど欠片もない、人間として大事なものが欠落している、と。


 あんな人間に愛されてしまった義雄は、不憫としかいいようがない。

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