無くなる
伊藤は外回りから一旦帰ってきて、遅めの昼食を簡単に取っていた。パンを齧りながらパソコンを眺めている。朝の眠気はとっくに吹き飛び、仕事に集中できていた。
ずいぶん調子がいいな、と自覚していた。まず、初めに九条が説得で離してくれた多くの霊が肩から降りたため、頭痛もないし頭が軽い。それになぜか息苦しさも今までの中で一番症状が軽くなっている。
もしかして、あまりの恐怖と寝不足でハイになってるだけだろうか? だとしたら、あとでしわ寄せが来そうで嫌だな。そんなことを考えながらさらにパンを口に入れたとき、自分の名前が呼ばれた。
「伊藤さーん、なんか会いたいって人が正面玄関に来てるらしいよ」
「へ?」
同僚の言葉に首を傾げる。今日自分に会いに来る人間に心当たりはない。しっかりパンを嚥下したあと答える。
「なんて人って言ってました?」
「九条って人だって」
名前を聞いた途端、立ち上がった。少し前、『何か変わったことは起こってませんか』と安否確認が来たところだ。伊藤は『調子がいいくらいです』と返してメールは終わっていたのだが、九条が会いに来たということは、ただ事ではない。
そうか、と伊藤は察する。あの安否確認は、九条に何かあったからこそ送られてきたのだ。
慌てて飛び出し玄関へ向かう。人の行き交いが多い廊下を通りエレベーターで一階まで降りると、玄関の近くに見慣れた顔があった。
「九条さん!」
そう呼びかけると相手が振り返る。そして、険しい顔で伊藤の方に近づいてきた。
「一体なにがあったんで」
言いかける伊藤の肩を、九条は両手でしっかり押さえた。そして、無言で首元をじっと見つめたのだ。さらには手で何度も擦る。
突然現れた男前が、もう一人の可愛い系男子に近づき首をさすっている。その奇行に周りの人間は驚き、女性社員はどこかわくわくしているような顔で見ていた。何やら勘違いしているようだ。
「九条さん?」
そんな周りの視線に気づき、気まずそうに名前を呼ぶ。だが九条は目を見開いたまま、愕然とした表情で伊藤の首だけを見つめていた。
「消えてます」
「……え?」
「あなたの首、今はもう何もありません」
驚きの言葉が出てきたので、伊藤も平然ではいられない。だが、あまりに人目があったため、九条の袖を引っ張りながら小声で言う。
「と、とりあえずこっちに来てください! 人が多すぎます!」
伊藤はそのまま、ガラス製の自動ドアを抜けて外へと出た。玄関よりは大分人が減る。もわっと暑さが肌を突き刺す中、端の方へ寄った後、九条に詰め寄った。
「一体何があったんですか? 僕のは消えてるってことですよね?」
「……一本も無くなっています」
「だから息苦しさがよくなってたのか……そ、それで九条さんは?」
「増えました」
伊藤は何も声が出せない。瞬きすらするのを忘れ、目の前の九条の首を見つめた。
なぜか分からないが、自分は救われ、九条を巻き込んでしまった……この状況は伝染するのだろうか? それとも、他に何か原因が? いずれにせよ、彼の良心が酷く痛んだ。
そんな伊藤の気持ちに気付いたのか、九条は至って冷静に言う。
「言いましたが、あなたが責任を感じることは何もありませんよ。伊藤さんは悪くないです」
「……でも」
「自分の部屋で寝ていたらうなされまして。何も見たり聞いたりは出来なかったんですが、鏡を見たら髪が増えていました」
「僕の部屋じゃなくてもそうなるんですか……一体どうして九条さんが? それに僕は無くなって……だって、朝までは二人ともありましたよね?」
「私の記憶が正しければ、朝まであなたの首にも私の首にもありました」
よく分からない状況に混乱する。初めより分からないことが増えていっている気がする。円城寺綾子は一体何がしたいというのか。
すっかり落ち込んでしまった伊藤をよそに、九条は淡々と言う。
「ですが、髪が消えたとはいえ、まだ安心するのはどうかと思います。伊藤さんを一人にするのは心配なので、夜は伺っていいですか」
「も、もちろんです! 僕……みえないし聞こえないし感じないし、ほんと役に立たない人間だと思いますけど、出来ることは何でもやりますよ。九条さんも早くこの状況から脱出しましょう。囮でもなんでもしますから!」
まさか、自分のせいで巻き込んでしまった九条をこのまま放っておくわけにはいかない。
力説する伊藤を見て、九条は少し驚いたような顔をした。だがすぐに、柔らかく微笑む。
「あなたは十分色々やってくれますよ。こんなに調査に同行してくれる人、初めてです。情報収集はあなたの力なくては不可能でした」
「そうですか……?」
「その引き寄せやすい体質も。協力してほしい所はちゃんと言います。あなたの力を貸してください」
「もちろんです!」
伊藤の強い返事に、九条はまたしても少し微笑んだ。
一旦解散し、伊藤はあまり集中できない中何とか仕事を切り上げた。九条はまた自宅に帰り、夜になったら合流することになっている。綾子に確実に狙われているであろう九条は、よく家に一人でいられるなあと伊藤は感心した。
帰りに夕飯用に適当な弁当と、九条のためにあらゆる味のポッキーを購入し、両手にぶら下げた。霊感がまるでない伊藤が今協力できるのは、九条の身の回りの世話ぐらいしかない。
マンションの前までやってくると、すでに九条が一人でぼうっと立って待っていた。その立ち姿はどこかの俳優のようでとても絵になる。伊藤はすぐさま駆け寄った。
「九条さん、お待たせしました!」
「いえ、お疲れ様です。……その荷物は何ですか?」
伊藤が持っているビニール袋を見て不思議そうにしている。
「ああ、夕飯用に適当なお弁当です。九条さんの分もありますよ」
「それはどうもありがとうございます」
「あと薬局でいろんな味のポッキーも」
「どうもありがとうございます!」
「食いつきが違う」
呆れながら並んでマンションへと入って行く。部屋に辿り着いたところで、九条は弁当よりも早速お菓子を開けて齧りつき、まるで自分の家のようにリラックスした状態で座り込むと、首元を触りながら部屋を眺める。
「伊藤さんの首の髪の毛はなくなりましたが、部屋の嫌な感じは残ってますね。やはり安心するのは早いかもしれません」
「そうなんですか……あの、もうよく分かんなくって。どうしてこんなことになってるんでしょうか?」
「正直に言います、私も分かりません。どうもしっくりこないことが多すぎるんです。でも考えられるとすれば、昨晩私がさんざん綾子の邪魔をしたこと。伊藤さんに口づけようとしたのを阻止したのが、何かあるのかも……」
九条は難しい顔でそう言った。
「え!? 逆恨みしたとか、もしくは『そんなに私のことを止めるなんて、あなた私の事好きなのね』という勘違いとか!?」
「なるほど、逆恨みは考えてましたが、後者の方は盲点でした」
「どちらにせよ恐ろしい……」
伊藤は一人恐怖に震えているが、当の本人はお構いなしでお菓子を食べるだけ。もぐもぐと咀嚼しながら緊張感のない声で言う。
「まあ、あと二日もすれば道具も揃うと思うので、もう少しの辛抱ですよ」
「……なるほど。それまで九条さんに何もないといいのですが。僕は見えないし感じないし、何も手助け出来そうにないのが辛いです」
「むしろ、私に標的が変わってよかったですよ。私なら感じ取れるので、本当に危ないと思ったら知り合いの元へ駈け込んだりできますからね。伊藤さんはそれが出来ないので、知らぬ間に絞め殺されてる可能性も」
「縁起でもない!」
「だから、大丈夫ですよ」
物騒な言葉を使いながらも、九条なりに前向きな発言をしているつもりらしかった。伊藤は渋々頷き、とりあえず冷蔵庫から飲み物を出して九条に渡し、自分はシャワーを浴びに言った。明るいうちに済ましたいと思ったのだ。
そのあと、買ってきた弁当を二人で食べ、まるで友人が泊まりに来た夜のように話しながら過ごした。二十一時を回った段階で、伊藤はだいぶ眠気に襲われていた。昨晩はあまり眠れなかったからだ。
九条に促され、伊藤は早々にベッドに入った。引き寄せやすい自分が寝たら、また何か出るかもしれない。九条も同室にいるのだし、その可能性は高い。
そう思うとさすがに寝つきが悪くなる。眠いのに寝れない、そんなもどかしい感覚で何度も寝返りをうちながら、目を閉じている。
「……九条さん」
「まだ起きてたんですか」
暗闇の中、呼びかけるとすぐに答えが返ってきた。こんな中で、一体彼は一晩中何をして過ごすのだろう。本当に大変な仕事だ、と伊藤は思った。




