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異変



 次の日は仕事だというのに、あれ以降はあまり寝ることが出来なかった。


 それでも朝はやってくる。いっそ休んでしまおうかと思ったが、やるべきことが山積みだし、休んだところでこの部屋に一人でいるのはごめんだ。伊藤は渋々朝の支度をした。


 九条はあの後もしっかり起きて伊藤を見守っていたらしく、朝はさすがにあくびを繰り返している。彼の働きぶりに感謝しながら、伊藤はいつも通りの朝を過ごす。


 顔を洗って、歯を磨く。食欲はないがしっかり朝食は食べ、着替えてゴミ出しをして家を出る。いくら霊に取りつかれていたとしても、生きてる人間には毎日朝がやってくるのだ。生活を続けねばならない。


 部屋を出て九条と一旦別れた。話によると彼はそのまま家に帰り、着替えや睡眠などを確保するらしい。寝不足での運転を控え、タクシーを使用して去っていくのを、伊藤は名残惜しく見送った。


 また夜になったら来てくれる約束だから、大丈夫。そう自分に言い聞かせ、首元の違和感を指でさすりながら、彼は職場へと向かった。


 伊藤が勤める会社は大企業で、全国にいくつも支社がある有名な会社だ。そこの営業部に所属しており、なおかつ成績もトップを争うという文句なしの肩書きだ。まだ社会人になって三年だが、彼は新入社員の頃から一目置かれている。誰にでも懐っこく人に好かれやすいその性格は、この仕事が天職と呼んでも大げさではないほど向いているからだ。


 伊藤は会社に足を踏み入れると、まず社内にあるカフェでコーヒーを購入した。寝不足のため眠気覚ましが必要だと思ったからだ。それを手に持ち、職場へと向かう。


「あ、伊藤さんおはようございまーす」


 席につくと、隣の男性社員が笑顔で挨拶をしてきた。一つ下の後輩だ。


「おはよー」


「なんか、顔疲れてないです? 寝不足ですか?」


 指摘され、伊藤は手で顔を触った。人に気付かれてしまうほど顔に出ていたのか。


「あーうん、そうなんだよね。昨日色々あって寝れなくてさ」


「もしかして彼女とか出来たんですか!?」


「あはは、違う違う、そっちじゃないって」


 笑いながらコーヒーを飲む伊藤に、後輩は不思議そうに尋ねる。


「伊藤さんってくっそモテるのに彼女作らないんですか?」


「ええ? モテてないし」


「いやいや伊藤さんでそれなら俺泣いちゃいますよ。あ、でもあれかなー伊藤さんって『みんなの伊藤さん』像が強いから、女の子たちは抜け駆けできないんですかね」


 後輩の随分大げさな言い方に伊藤は苦笑した。伊藤としては、今までしてきた恋愛は特別なものはなく、よくある交際経験であると思っている。女に取り合いをされた経験だってない。


 だがふと、今相手がいなくてよかった、と思った。もし今自分に交際相手がいたならば……綾子はどうしていただろう。


「そんなんじゃないって」


「彼女出来たらちゃんと教えてくださいよ。スーパーな伊藤さんの彼女がどんな人なのか気になりますから!」


 昨晩、九条にぶつけた話題がまさか自分に返ってくるとは思わなかった。謙遜ではなく本当に自分がモテている自覚などない。いや……霊には好かれているということは痛いほどわかったが。


 夜中に九条から聞いたエピソードを思い出し、気分がずんと落ちる。


「今はもう、それどころじゃないっていうかさ……」


「あー仕事忙しいですもんね。伊藤さん友達多いからそっちも楽しそうだし」


「まあ、そんなとこだね」


 まさかとんでもない霊にマーキングされている最中だ、とも言えるわけがなく、伊藤は適当に相槌を打つ。自然と自分の首に手を置き、そこをさする。


 だがそこでふと、あることに気が付いた。


(そういえば……今日はあんまり息苦しくないかも)






 伊藤と別れた後、タクシーで自宅に辿り着いた九条は、まず浴室に入りシャワーを浴びた。彼は適当な性格で極度のめんどくさがりなのだが、シャワーを浴びずにベッドに入るのは好まない。意外と綺麗好きという、なんとも不思議な二面性を持っている。


 だがなるべく掃除に時間も手間も掛けたくないので、家の中は必要最低限のものしか置いていない。物があればあるほど、掃除が面倒になってしまう、というのが彼の考えだ。


 料理はしない。一切しない。なのでキッチンは汚れることがない。


 ラグもカーペットも敷かない。最近、掃除ロボットを購入してみたいと思っている。


 シャワーを終えてさっぱりした九条は、髪を乱暴に拭いてどさりとベッドに腰かけた。ふううと長いため息をつく。


(やはり結構厄介な案件だな)


 スマホを取り出し、何も連絡が来ていないことを確認した。充電がなくなりかけていることに気付き、繋いでおく。そしてバスタオルを適当に枕の上に放ると、その上にごろりと寝そべった。髪が濡れていてもお構いなしだ。


 やはり体は疲れを感じている。夜になれば、また伊藤の家で徹夜で見守る役割があるので、今寝ておかねば辛くなってしまう。


 ぼんやりと天井を見つめながら、九条は考えを巡らせる。


 イマイチしっくりこない点がたくさんある。綾子はあの部屋に住む男をターゲットにしているのは間違いないだろうが、自分は例外だし、そもそもなぜあの部屋にこだわる?


 なぜ自分は選ばれた? ただの相性か。それとも、能力がある人間が面白かったので近づいたのだろうか……それはあり得る気はするが……


 考えても答えは何一つ出てこなかった。そして次第に眠気に負け、九条の瞼は自然と閉じ、夢の中へと入って行ったのだ。


 そこから死んだように眠り続ける彼だが、昼近くになったころ、静かだった部屋にうめき声が響き始める。低い地鳴りのような声で、かなり苦しそうな声だ。


 寝ていた九条の表情が歪み、首を横に何度か振った。何かを拒否するような動きだ。唇を噛み、額に汗が浮かんでいく。


 数分その状態でいたかと思うと、彼はふとした拍子にハッと目を覚ました。すぐに自分の状況を察した彼は、起き上がり部屋の隅々まで探し回ったが、綾子らしき人影はどこにもなかった。


 部屋の中央で足を止め、乱れた息を落ち着かせながら、彼は腕を組んで考え込む。


(ついに連れてきたか……?)


 あの部屋だけではないのか。地縛霊ではない?


「とんだ目覚めだったな……寝ていたらやけに息苦しくなって目覚めた」


 昨日、伊藤に起こされた時もこんな感じだった。寝苦しく、呼吸が上手く吸えないような感覚にうなされていた。特に聞こえたものはなかったのだが。


 そっと額に浮いた汗を拭きとると、喉に違和感を覚えて咳ばらいをした。そこで九条はふと、何かを感じ取る。


 次に、厳しい顔をして洗面所へ向かった。大きな鏡の前の前に立ち、自分の姿を眺めて呆然とする。


 昨日までは一本だった髪が、数本に増えていたのだ。


「経過が早いな……」


 伊藤は一か月前に越してきて、一昨日の夜に数が増えた。それが、九条はかなり早いスピードで増えている。


 彼は寝室に戻り、伊藤にメッセージを打った。何か異変があれば連絡が出来るよう連絡先を交換していたのだ。伊藤の身に何か起こってないか心配に思う。


 忙しいのかすぐには返事が来なかったが、二十分経ったところでスマホが鳴った。


『僕は何も起こってません! むしろ、なんか今日は調子いいような。息苦しさがよくなった気がします』


 それを読んで九条は止まった。しばらく固まった後、すぐに財布と鍵だけポケットに突っ込み、部屋から飛び出た。





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