口づけ
「……いや」
ハッとして振り返る。背後からまだ不穏な空気を感じ取ったからだ。いる、完全に消えてはいない。彼は急いで部屋の中へ戻り、暗い部屋全体を見回すとすぐに見つけることが出来た。
伊藤は変わらず寝ている。だがその頭のすぐ隣に、今度は正座した状態の女が顔を覗き込んでいた。長い髪を垂らし、じっと伊藤の顔を見つめている。その口元は、卑しくにやあっと笑っていた。口の端に唾液が光る。
「円城寺綾子さん。その人は義雄さんではありませんよ」
九条が厳しい声で言うと、明らかに綾子がピクリと反応した。そしてゆっくりと、まるで重い荷物のように頭を持ち上げて九条を見る。
ひるむことなく、彼は続ける。
「あなたがここにいる理由はなんですか? 伊藤さんや私に何をしてほしいのです。この部屋に、矢部義雄さんはいませんよ」
綾子は答えない。ただ九条をじいっと見ているだけだ。
九条はひたすら綾子の返事を待った。憶測ではなく綾子の口から、この世に残る理由を聞いて確信したいからだ。
だが待てども待てども、綾子は何も答えなかった。どれほど時間が経ったのか、ただ九条の方を見つめていた綾子が、またそっと俯いて伊藤を覗き込む。
そして、両手で伊藤の頬を包んだ。まるでわが子を愛でる親のような動きで、伊藤の頬を撫でる。
さらに、寝ている彼に徐々に顔を近づけていく。嬉しそうに楽しそうに、伊藤に近づいていく。
口づけるつもりだ。
その異様な動きに察した九条は、まずい、と思った。そして咄嗟に両手を一度叩き、大きな音を出した。部屋中にパン、と大きな音が響く。音は鳴ったものの、どこか鈍い音に聞こえた。
「うーん」
「伊藤さん!」
寝苦しそうな声を上げた伊藤に呼びかけると、伊藤が目を開ける。同時に、女は舌打ちをして消失してしまった。
結局聞けたのが、金切り声と舌打ちだとは。九条は一つため息をついた。
「は、はい、どうしました」
伊藤はごそりと起き上がり、九条の方を見た。開けっ放しのクローゼットに、焦った顔をした九条。それだけで、ただ事ではない何かが起こったのだと理解するには十分だ。
慌てた様子で部屋の明かりをつけ、九条の元に近づく。
「出たんですか!」
「……出ましたね。それはもう、フルコースでした」
はあ、とため息をつきながら九条は簡単に今あった出来事を話した。
死んだ場面を見せつけるように再現されたこと、伊藤のキッチンでカレーを作っていたこと、さらには寝ている彼に口づけようとしたこと。
とてつもない恐怖に伊藤は眩暈を覚えた。自分はそんな状況の中、どうしてぐっすり眠っていられたのだろう。鈍感は才能だ、と九条は言ったが、鈍感のレベルを超えている気がする。
頭を抱えながら伊藤は必死に自分を落ち着けた。
「そ、そんなことが……僕、キスされそうだったんですが……ひえ」
「あなたに固着していることは間違いなさそうですね。私にもマーキングはしていますが、伊藤さんへの想いの方が強そうです。キッチンだって、多分嫉妬したんじゃないですか」
「え……?」
意味が分からず首を傾げたが、すぐに理解して青ざめた。
今、コンロの上に乗っているのは戸谷から貰ったカレーだ。他の女が作ったカレーを食べることに、綾子は嫉妬したのだ。だからわざわざキッチンに立ち、警告した。自分以外の女が作った物など食べさせない、そういう強い思いが伝わる。
義雄が他に彼女を作ったことに嫉妬し包丁を持ち出したというシーンを想像し、伊藤は身震いした。
「そ、それで……声はどうだったんですか?」
「それなんですよ。名前や呼びかけには反応があったので、まず円城寺綾子で間違いないと思うんですが、中々言葉を発してくれないんですよね。まあ、仕方ないです、こういうこともよくありますから」
「でも状況的に見て、やっぱり誰かを義雄さんの代わりにしようとはしてますよね?」
「その可能性が非常に高いかと……ということで、やっぱりそっちの方で浄霊の準備を進めます」
「え、ど、どうするんですか!?」
伊藤が食いついたが、九条は答えなかった。そして、ポケットからスマホを取り出しどこかに電話を掛け始める。
伊藤はちらりと時計を見てみると、もう一時近くなっている。こんな真夜中に、一体どこに掛けるのだろう?
何度かコール音がした後、不機嫌そうな女性の声が響いたのを伊藤は聞き逃さなかった。
(誰だろう……女の人だ。それに、若そう)
さすがに向こうが何を言っているのかまでは聞き取れない。
「麗香? 寝ていたところ申し訳ない。至急で頼みがある」
敬語ではない口調で九条が話しているのを、伊藤は初めて見た。気になるが、人が誰かと会話しているのをじっと見つめるのもよくないかと思い、ふいっと視線をそらした。
扉が開いたままのクローゼットが目に入る。あの中で実態はないものの、女が首を吊っていたということにげんなりする。さらには、その奥にある扉から見える薄暗いキッチン。いつも通りの自分の家だが、気味悪くてたまらない。
(僕……霊がいなくなったとしても、ここに住めるかなあ)
自分は鈍いから見ることはないというのに、人間は脆いものだ。想像するだけで恐怖し、関わりたくないと思ってしまう。
それと、ちらりと見えたガスコンロ上の鍋。彼の背中にぞぞぞっと寒気が走る。
「話がまとまりました」
いつの間にか九条は電話を終えていた。彼はスマホをポケットにしまう。
「私が手配します。言ったと思いますが少し時間がかかります。その間、夜は伊藤さんに付き添いますから、あともうしばらく辛抱してください」
「わ、わかりました!」
「円城寺綾子が矢部義雄の代わりに誰かを道連れにしようとしている、という憶測が合っているのであれば、きっとうまく行きます」
九条がそう断言したので、伊藤は信じるしかなかった。




