チキン南蛮
そのまま一旦マンションから出て、二人は近くのファミレスに入った。家の中ではさすがにゆっくり話せないと思ったのだ。気持ちを落ち着けるためにも、あのマンションから離れたかった。
とりあえず席に座り、二人はげっそりした表情で向かい合う。伊藤は絶望の声で改めて尋ねた。
「九条さんにも、巻き付いてるんですよね? 僕には見えないんですが……」
九条は頷いて自分の首を撫でる。不快そうに眉を顰めた。
「なんだか微妙な圧迫感を感じて気持ち悪いですね、これ。伊藤さんの気持ちが分かりました」
「……すみません。九条さんまで巻き込んで」
伊藤は顔を青くし俯いた。まさか、九条にまで被害が及ぶとは思っていなかったのだ。
だが九条はきょとんとする。
「謝る必要などありませんよ。あなたのせいではないですし、こういう危険性があることは分かってこの仕事をしているのですから」
「え……怒らないんですか?」
「怒ってどうにかなりますか。少々驚きましたが、仕方ない事です。あなたが気に負うことは何もありません」
きっぱり言い切ったのを聞き、伊藤は小さくお礼を言った。やはりこの人は、変に見えて中身はしっかりしているんだな、と感激しながら。
九条はメニューを取り出し、中身を眺め出す。
「伊藤さんお昼何か食べましたか」
「あ、僕は食べました。ドリンクバーだけ頼みます」
「じゃあ私頼みますね。すみません、このチキン南蛮定食とドリンクバーを」
近くにいた店員に注文したのを見て、伊藤は呆気にとられた。
(こんな状況でご飯すぐ食べられるんだ……メンタルつよ)
女の霊に取り憑かれたらしいというのに、あまり焦ってる様子はない。さっきは伊藤を気遣って色々言ってくれたのだろうと思ったが、もしかすると本人は単にあまり気にしていないのかもしれない。彼は焦ったりすることがあるのだろうか。
「九条さんって……こう、困ったーとか、パニックになるとか、ないんですか……?」
「さあ、あまり経験ありませんね。ポッキーが販売終了したらそうなるかもしれないです」
「……」
「さて。伊藤さん、私にまでマーキングが及んだことで、色々と状況が変わってきました」
九条は突然鋭い目つきになり本題に入ったので、伊藤は背筋を伸ばす。
「と、いいますと?」
「あなた、友人が多いように見えます。昨日も言ってましたよね、同期を呼んで飲み会をしただとか」
「そうですね。まあ友達は多い方かと思います」
「あそこに引っ越してから、そうやって誰かを招き入れたことは何度かありますか?」
「はい。引っ越しを手伝ってくれた友達は何人かそのまま泊っていきましたし、同期での飲みもしたし。一人暮らし初めって、人を呼びたくなるじゃないですか」
「私はなりませんけど」
「想像通り」
九条はともかく、一般的に初めて一人暮らしを始めると、誰かを招きたくなることは多くある。伊藤もそれで、何人か部屋に出入りしたことがある。まあ彼の場合、一人暮らしを始めたというと勝手に人が集まってくるのだが。
「でも、他に取りつかれていそうな人はいないんですよね?」
「は、はい。そうだ、九条さんを紹介してくれた桜井って友達もうちに来た事あるんですよ。そして、今回の僕の息苦しさについても話しています。桜井が同じような体験をしてたら、言ってくれると思うんですよ」
「……なるほど」
九条は気になるのか、首を触りながら言う。
「そうなると、なぜ今回は私も被害に遭ったのか、という疑問が残ります。私はあの部屋の住民ではないです。出入りした男性全てに起こる、なら分かりますが、話を聞く限りそうではない」
「た、確かに……なんで九条さんが?」
「霊とは相性や波長が合う・合わないなどありますが、今回の件はそんな簡単な言葉で片付けられない気がします。それに、私は朝『引っ越せば現象が収まる可能性が高い』と言いましたが、住んでもいない私にこの現象が起きているので、もしかすると引っ越しても収まらないかもしれません」
伊藤は唸って考え込んだ。自分が部屋に入ってから、何人か男は出入りしてるし、泊まらせたこともある。そんな中、どうして九条のみ憑かれてしまったというのか。伊藤と九条に、何か共通点があるのだろうか?
「それと伊藤さん、私はもう一点気になっていたことがあります」
「なんでしょうか」
「あの土地に円城寺綾子が縛り付けられてしまった、という点は理解できます。自分が死んだ場所ですし、ずっと想いを寄せていた矢部義雄もあの土地に住んでいたわけですからね。でもそうなると、『なぜあの部屋だけ円城寺綾子が現れるのか』という疑問が出てきてしまうんです」
「あ……!」
伊藤は九条の言いたいことを理解し、確かにと頷いた。
土地に棲みついた霊だとしたら、あのマンション全体的に出没してもおかしくはない。だが、隣人の戸谷は伊藤の部屋以外で出入りが激しいと思ったことはない、と言っていた。
「戸谷さんの反対側にも男性が住んでいると言っていましたが、長くいるようですし」
「あ、同棲してるカップルって言ってたからじゃないですか? 男の一人暮らしだけ狙われるんじゃ」
「親切な霊ですね。恋人がいれば取り憑くのを止めるんですか。円城寺綾子は好きな男が他に恋人を作ったことで逆上した経験がありますし、その性格ならむしろ幸せそうなカップルを狙うと思うんですが」
「……確かに」
伊藤はあっさり引き下がった。
なぜあの部屋だけ霊が現れるのか。そして住んでもいない九条が標的になってしまったのか。分からないことは考えてもまるで答えが出てこない。
少しして、九条が頼んだ料理が運ばれてくる。彼は箸を取り、そのままパクパクと食事を始めた。伊藤は全く食欲がなく、自分で持ってきたドリンクバーのウーロン茶を少し飲んだだけだ。
九条はもぐもぐと咀嚼しながら言う。
「とりあえず、食べたらまた戻りませんか。落ち着くためにここに来ましたが、現場に行かないと何も解決しませんからね。私が寝ていた時の映像を確かめてみましょう。そして、夜はまた伊藤さんに寝てもらって私が観察します。円城寺綾子が現れて会話が出来れば、状況も変わるかもしれない」
「……あの、円城寺綾子を浄霊するとしたら、一体どうするんですか? あの人は何をしたくて留まっているんでしょう」
伊藤の疑問に、九条は少しの間答えなかった。白米を口に入れ飲み込んだところで、困ったように頬を掻く。
「実際のところ……死んだ状況から考えて、恋が実らなかったことを苦にしていますよね。寂しさで留まっているとしたら、男性を道連れにしようとしているのかもしれません」
九条の発言に伊藤は息を忘れた。道連れ、という言葉があまりにショッキングだった。
首吊りをして死んだという円城寺綾子が、男に髪の毛を巻き続ける。今はほんの少し息苦しいだけだが、これがどんどん増えていったら。
すっかり固まってしまった伊藤を見て、九条はフォローを入れる。
「ですが、昨晩見えた時に感じた様子で考えると、円城寺綾子はそこまで強い霊ではないのが幸いです。嫌な霊ではありますが、とんでもない悪霊にはまだなっていない、と言う感じです。短時間で命まで脅かされることはないでしょう。まあ、長時間続けば危なくなるかもしれないので、その時は力の強い除霊師に駆け込みます。一時的にでも遠ざけてもらえれば時間稼ぎになりますからね」
「あ、そ、そうですか……分かりました。お願いします」
安心したような、でもすっきりしないような気持で伊藤は困った。
自分が想像していた以上に、この事件は恐ろしく奥が深そうだ。とんでもない部屋を選んでしまった、と反省しても遅い。
「とんでもない悪霊とかだと、やっぱり凄いんですか?」
「まず、私は昨晩円城寺綾子の姿が見えなかったんですよ。シルエットでした。力が強い霊相手だとしっかり姿が見えたりするので、そこで相手がどれくらい強いか判断できます」
「あ、そんなこと言ってましたね……」
「いいですか。憎しみや怒りを持った霊は、長く時間が経つとどんどん悪霊化します。そうなれば私の手には負えません。あなたが通っていたという寺の住職ですらお手上げかも。ごくごく一部の強い除霊師しか手出しが出来なくなります。そうなる前に私は彼女を何とかしたい」
真剣な眼差しで語る九条の言葉に、伊藤はしっかり耳を傾けていた。
綾子が悪霊化していないことは不幸中の幸いだろう。彼女がそうなっていたら、自分はこの一か月の間に命を落としていたかもしれない。
とはいえ、油断は禁物なんだろう。時間がかかればかかるほどきっとよくない。早く解決しなければならない。
伊藤はウーロン茶を飲みながら、目の前の九条をすがるように見る。この人に自分の運命はかかっているんだ、と再確認しながら。
ーーただ、その時九条の口の端にはチキン南蛮のタルタルソースがついていて、あまりに締まりがなかったので、伊藤は漠然と不安になった。
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