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猫の癒し



 伊藤と九条は息を呑みながら話を聞いていた。小川夫妻は思い出すように顔を歪める。


「もちろん大騒ぎになったのよ」


「パトカーも来たりして、私たちも話を聞かれたりしてな」


「幸い、けが人は出なかったんだけどね……義雄くんがそれでかなり怒っちゃって。そりゃ、大事な恋人が危険な目に遭ったんだから当然とは言えば当然なんだけど。綾子ちゃんに面と向かって『お前を好きになることは永遠にない、二度と目の前に現れるな』……みたいなことを言ったらしいの」


 義雄の立場を考えれば、完全に被害者だ。一方的に好かれ、自分の恋人を刺されそうになったのなら、それくらいのセリフは当然とも言える。衝撃的な事件に、しばらく沈黙が流れた。


 少しして九条が先を促す。


「それで、どうなったんです」

 

 小川夫妻は視線を落として黙る。意を決したのは小川氏の方だった。


「けが人も出なかったことで、綾子ちゃんは大きな罪には問われずすぐに帰ってきたんだが……義雄くんに言われた言葉がショックだったようで、そのまま自宅で首を吊った」


 それを聞いたとき、一瞬伊藤の首の苦しさが増した気がして、自分の喉元を触る。同時に、この目に見えないマーキングをしたのはやはり円城寺綾子だろうと、伊藤は不思議と確信した。


 好きな男に振り向いてもらえず想いをこじらせ、最後は自分で命を絶った女……。


 伊藤は息苦しさから少しせき込むが、必死で平然を装った。自分の首を絞めつける女の姿が、ようやくつかめてきたのだ。


 小川氏は続ける。


「娘が包丁を振り回した挙句自殺なんてしたんじゃ、円城寺さんはもうここにはいられないってなって、引っ越していったよ。さらには矢部さんのところも。やっぱり、隣で人が亡くなったって思うといい気分じゃないだろう? それも原因は、息子だからね。義雄くんは何も悪くないとはいえ、ご近所の目もある。結局矢部さんも少ししていなくなった。すっかり寂しくなったこの土地を見て、マンションを建てたいという声が上がってね……残った浅田さんはすぐに土地を売ったよ。隣にあった大きな畑は浅田さんのものだったから、あっさり話はまとまりマンションが計画された、というわけだ」


 伊藤はごくりと唾を飲み込む。自分が住んでいる土地で昔、そんなことがあったなんて。つまり今あのマンションにいる霊は円城寺綾子で、自分に取りついている……ということか。


 ちらりと隣の九条を見ると、彼は何かを考えるように難しい顔をしていた。そして小川氏に尋ねる。


「お二人の写真などはありませんか」


 その質問に、夫人は困ったように眉尻を下げる。


「写真なんて、ないわ。会えば世間話ぐらいしたけど、写真を撮るような仲じゃ」


「あ、おい。自治会の祭りの時の写真はなかったか? 義雄くんだけだと思うが」


 小川氏がそう指摘すると、夫人はああっと何かを思い出したように手を叩いた。


「そうね、あれに映ってるわ! 少し待っててね」


 そう言い残し、急ぎ足で違う部屋へと入って行くと、小川氏が九条たちに補足する。


「自治会が年に一度、小さな祭りを開くんだ。その年はうちが組長でね。老夫婦には結構辛い仕事が多かったんだが、見かねた義雄君が少し手伝ってくれて……いい子だったんだよ」


 しみじみと彼は言う。義雄は明るく誰にでも好かれる人柄で、それがこんな形で好意を持たれたのは悲劇の他なにものでもない、と苦々しく言った。夫妻は綾子にしつこく愛された義雄の方を不憫に思っているようだ。それは九条や伊藤も同感で頷いた。


 最終的に命を落としたのは綾子の方だが、元々は彼女の歪んだ愛がすべての原因だ。もう少し相手を思いやる気持ちがあれば、彼女もあんな最期を遂げずに済んだのかもしれない。よく言えば一途で深い愛、悪く言えば独りよがりな愛だった。


 そこへ夫人がアルバムを手に戻ってくる。パラパラとめくりながら必死に探しているようだ。


「確かこの辺……あ、ほら義雄くんよ!」


 夫人は開いたアルバムを九条たちに見せた。二人でそれを覗き込むと、爽やかな青年がカメラに向かってピースサインをしている様子が映っている。見た目からして性格の良さがにじみ出ていそうな青年だ。


「でも綾子ちゃんのはさすがにないわ。ほら、進学でずっとこっちにいなかったし」


「いえ、矢部義雄さんの顔だけでも見れてよかったです。この写真、お借りしても?」


「いいわよ、どうぞ」


 九条は一枚取り出し、そっとポケットにしまい込んだ。そこで夫人が話題を変えるように明るい声を出す。


「そうだわ、頂きもののお菓子がたくさんあって、私たちじゃ食べきれないのよ。よかったら持って帰ってくれないかしら」


 そう言って立ち上がると、小川氏も笑顔で違う話題を振り始めた。暗い空気を何とか変えようとしてくれているのだろう。伊藤も何とかそれに答えるが、心の中でずっともやもやした気持ちが残る。


 昨晩、ベッドの中で自分にしがみついていた女が、生前からそれほど一人の男に執着していたなんて……今は、その相手が伊藤になってしまったということか。


 ずんと落ちた気持ちでいると、すっかり姿を消していたマロンがどこからか現れ、伊藤めがけてジャンプし彼の膝の上にすっぽり収まってしまった。小川氏が声を上げて笑う。


「懐いてるなあ!」


 伊藤は微笑んでマロンを撫でる。柔らかな毛並みを肌で感じると、抱いていた不穏な気持ちが鎮まっていくようだ。動物の力は凄いな、と心で呟いた。もしかして、猫も何かを感じ取って励ましてくれているのだろうか。


 マロンは伊藤の上で体を伸ばし伸びをするが、その拍子に前足が九条の足に当たる。気持ちよさそうに目を閉じて寝る体制に入ったようだ。


 伊藤は小声で言う。


「今ならちょっと触れるんじゃないですか」


 言われた九条はやや動揺し、しばらく迷った挙句、ほんの少しその手を触った。


 今回は逃げなかった。


 九条は少し柔らかな表情で、そっとマロンの前足を撫でた。柔らかな毛と肉球が、心を穏やかにしてくれる気がした。







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