昔話
リビングに入ると、茶色のソファとテーブルがあった。ソファの上には一匹、三毛猫が寝そべっており、伊藤たちの訪問にゆっくりと頭を上げる。伊藤は明るい声で言う。
「あ! マロン~! 元気にしてたかー」
にこにこ顔でソファに近づき、マロンと呼んだ三毛猫をすぐに撫でた。伊藤が以前、脱走したのを捕獲した猫が、このマロンだ。
夫婦が大事に育てている猫で、普段は家の中で飼っているのだが、その日はベランダを開けた隙を狙ってするりと逃げ出したらしい。夫婦で急いで探し回ったがなかなか見つからず、途方に暮れていたところ伊藤が現れた。
彼は近くの木の上にいたマロンをすぐに発見。抱きかかえてこの家に戻ってきた経緯がある。
マロンは伊藤の事を覚えているのか、頭を撫でられ気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。それを見た夫人が微笑んで言う。
「あらあらすっかり懐いてるみたいねえ。あ、九条さんもどうぞソファに座って」
「失礼します」
九条はしゃがみこんだ伊藤を通り過ぎ、そっと猫の隣に腰かける。そしてちらちらと猫を気にかけているのを見て、伊藤が尋ねる。
「もしかして九条さん、猫好きですか?」
「まあ、動物は好きですが」
「人懐っこいですよーマロン!」
伊藤が手を休めることなく笑って言ったのを聞いて、九条はピクリとも動かずじっと猫を凝視する。そのまるで犯人を見つめる探偵のような眼光に、伊藤は思わず表情を引きつらせた。少しして、意を決したように九条が手を伸ばす。
と、何かを感じ取ったのだろうか。マロンは突然するりとソファから降り、ささっとどこかへ行ってしまったのだ。
残されたのは、手を伸ばした状態の顔のいい男。彼はすぐに悲し気に目を細めた。
その光景が伊藤のツボに入り、つい小さく吹き出し、お腹を抱えて笑ってしまう。堪えようとしても笑いが抑えきれない。
「す、すみませ……! 凄いタイミングだったから……!」
そういえば、九条は動物に嫌われやすい、と言っていたのを思い出した。伊藤は逆でかなり動物から好かれやすいタイプだったので、九条を哀れに思いつつも、猫に振られて悲しい表情をした九条がどうにも可愛らしく見えて仕方なかったのだ。
「さあさあお茶をどうぞ」
夫人がグラスに入った冷たいお茶を持ってきてくれたので、伊藤はマロンがいた場所に座った。
小川氏はソファの近くにあった一人掛けの椅子に座り、にこやかに話しかけてくる。
「先日はマロンをありがとう。もう帰ってこないんじゃないかとハラハラしたよ」
「たまたま見つかって、ほんとよかったです!」
「それで今日はどうしたの?」
「あ、えっと、小川さんってここに住まれて長いですよね?」
「ああ、もう五十年近くになるかな」
「僕が住んでるマンションの前って、何があったか覚えてらっしゃいますか?」
聞かれた小川氏は腕を組み頷いた。
「普通のお家があったよ。それぞれ立派なお家だった記憶がある。ええと名前は確か……」
思い出そうとする小川氏に、九条がすかさず口を挟んだ。
「矢部家、浅田家、円城寺家で間違いないですか?」
九条の言葉を聞いて、小川氏は目を丸くした。
「ああ、よく知っているね。そうだったそうだった」
「それぞれ住んでいる時に、何かトラブルなどはなかったですか?」
九条が質問したとき、丁度夫人がやってきて小川氏にもお茶を差し出した。そのまま隣にしゃがみこみ、どこか苦い顔をする。
「あなた、ほら矢部さんと円城寺さんって……」
「ああ、まあ、あったな……」
二人の言いにくそうな様子を見て、九条も伊藤もピンとくる。何かあったに違いない。伊藤が丁寧な口調で言う。
「何があったか教えて頂けませんか。僕、今ちょっと困ったことになっていて……詳しくは言えませんが、住んでるマンションについて小さなことでも知りたいんです」
しっかり頭を下げたのを見た小川夫妻は、それぞれ顔を見合わせたあと、意を決したように口を開いた。まずは、小川氏だった。
「あまりいい話じゃないよ。この辺りに住んでる人はみな知ってることだけどね」
続いて夫人が引き継ぐ。
「それぞれとてもいい方たちで、私たちも近所付き合いがあったんです。世代は私たちより若かったけどね。円城寺さんのところは五十代のご夫婦と娘さんがいらっしゃって、その隣の矢部さんも同じぐらいの年齢の息子さんがいらっしゃったの」
「浅田さんの家はうちみたいな年寄り夫婦だったけどね」
二人の話はこうだった。
円城寺家の娘と、矢部家の息子は幼馴染だった。名前は綾子と義雄と言ったらしい。年も近く家が隣同士ならば、仲良くなるのは必然とも言える。小さな頃、二人が手を繋いで歩いている様子を小川夫妻もよく見たそうだ。それはそれは微笑ましい光景だったと、懐かしそうに目を細めた。綾子は小柄でどちらかと言うと大人しめな子で、義雄は活発で明るく元気な子だったそうだ。
だが、二人が成長するにつれてその光景は見ることがなくなった。思春期を迎えると、二人は話すことすらなくなっていったそうだ。特に、義雄が綾子を避けるようになったと。
小さい頃はよく遊んだが、思春期にもなれば周りからの目やひやかしが気になり距離を置くというのは珍しいことではなく、むしろ自然な流れでもある。漫画のように『ずっと仲のいい異性の幼馴染』は、現実では難しいことも多い。
だが、ここで問題だったのは、綾子の方はずっと昔から義雄に恋心を抱いており、避けられていることを嘆いていたことだ。
お互い自然と離れるなら問題なかったのだが、綾子は違った。そして、その想いは不器用なもので、どんどん拗らせていく。
綾子は義雄に付きまといやストーカー行為を行っていたという。待ち伏せしたり、手紙を何通も送ったりして、義雄に迷惑がられていたのだ。実際、義雄の家の前で待ち伏せる綾子の姿を小川夫妻も見たことがあるらしい。『思いつめた顔で、ちょっと普通じゃなかった』と彼らは言う。
無論、彼らの両親たちもそれに気が付いていた。円城寺家は娘に厳しく注意した。矢部家は、元々は隣同士仲良くしていた関係なので、大事にして住みにくなったら困る。なので、なるべく穏便に済ませようとしていたようだ。
だが綾子は止まらなかった。ストーカー行為は続いてしまったのだ。
そこで、綾子の親は彼女を県外の学校へ進学させた。他の事に夢中になれば、きっと落ち着くだろう……そういう考えだったようだ。親として何とか対処を考えたらしい。本人は嫌がったそうだが、半ば無理やり進学を進めた。
その効果があったのか、綾子はストーカー行為をやめた。時々帰省していたようだが、変な行為はしなくなったので、ようやく気持ちが落ち着いたのか、と周りはほっとしたらしい。何年も平穏な時が流れる。
その後、綾子は高校と大学を卒業して、就職を機に実家に帰ってくることになる。
ある日の事。
当時、義雄は結婚を意識している交際相手がいた。その相手を実家に連れてきて、両親に紹介したらしい。そのことを一体どこから嗅ぎつけたのか、綾子は義雄の家に訪問した。……包丁を隠し持って。
その包丁で、義雄の交際相手に襲い掛かった。
彼女はずっと義雄に対する思いを抱き続けていたのか、それとも帰ってきたことで気持ちが再燃したのかは分からないが、奇声をあげながら包丁を振りかざす様子は異常で、普通ではなかったそうだ。
『こんなに好きなのに』『私が運命なの』『どうして分かってくれない』
彼女は何度もそう叫んでいたらしい。




