拝啓、死んだ方がましだと思っていた私へ。信じられないでしょうけど、今幸せよ。
「ゼゾッラ! このグズ! まだ出来てないの!」
「申し訳ありません!」
侍女長に怒鳴られ、ゼゾッラは雑巾を持ったままびくりと体を震わせた。慌てて今しがた拭いていた床に、額を擦りつける。
くすんだ灰色の髪に光のない青い瞳。こけた頬に、骨の浮いた手足。
あちこちが擦り切れたお仕着せ姿のゼゾッラは、物乞いと言われても違和感がない。由緒正しき伯爵令嬢とは、誰も思わないだろう。
怒鳴られたのは、廊下の床を顔が映るほどに磨いている最中だった。屋敷の端から端までと言われていたけれど、早朝から昼までで、まだ三分の一しか終わっていない。
ゼゾッラはずんと気持ちが重くなった。
これから仕事が遅いことを、ねちねちと説教されるのだろう。
たった一人で、屋敷の廊下を全てピカピカに磨き上げるなんて、数日かかる。
にもかかわらず、半日でまだ出来ていないのかだなんて、嫌がらせでしかないのだ。
「ちっ。これだからのろまは。続きは後でやりなさい。奥様がお呼びよ」
「はい」
覚悟していた説教は始まらなかった。
ずっとしゃがんでいたからか空腹のせいなのか、立ち上がるとふらついたが、なんとか踏ん張る。体調の悪いそぶりを見せると、『甘えている』『仮病』だ、などと折檻されてしまう。
ゼゾッラの母は十歳の時に儚くなり、三年後に父が再婚。その一年後に父が亡くなってから、数日で後妻のクチーレは伯父と再婚した。
父の死後、ゼゾッラの居場所は完全になくなり、使用人たちよりも下の存在として扱われている。
毎日夜が明ける前から仕事を言いつかり、みなが寝静まるまで働いている。
食事は残飯にありつければまだいいが、全くとれないこともざらだった。
邸宅の様子もすっかり変わった。調度品は落ち着いた色合いのものから、色も装飾も派手なものが多くなった。長く仕えてきた信用のある使用人たちは解雇され、顔ぶれもすっかり入れ替わってしまった。
「相変わらず小汚いわね」
侍女長に連れられてクチーレの私室に入るなり、顔をしかめられた。
「今からゼゾッラに湯あみをさせて、これに着替えさせなさい」
「……ゼゾッラに、ですか?」
大きく目を開いた侍女長が、信じられないものを見るようにゼゾッラとクチーレを交互に眺めた。
ゼゾッラも同じ気持ちだ。
湯あみだなんて何年もしたことがない。濡らした布切れで体を拭くのがせいぜいだった。使用人に湯を使うだなんて贅沢は許されていなかったから。
しかも差し出された着替えは、使用人のお仕着せではなく、義姉のドレスだ。
一度着ただけで気に入らないと言って隅においやってはいたが、それなりに上等なドレスである。使用人以下であるゼゾッラが着るようなものではない。
「そうよ。ペンタメローネ子爵に手紙を渡してほしいの。それなりに見えるようにしなくちゃ体裁が悪いでしょ」
「左様でございますか」
釈然としない様子で、侍女長が頷いた。どんなに変でもクチーレの言うことは絶対だ。クチーレが白を黒と言えば黒なのだ。
「急ぎだから特別に馬車を使わせてあげるわ」
「え!?」
「文句あるの?」
「いいえ!」
慌てて首を横に振る。
てっきり徒歩だと思っていたので驚いてしまった。
よくよく考えればドレスを着て子爵領まで歩くのは無理がある。体裁を保つためにドレスを着て行くのに、徒歩では汚れてしまう。それでは本末転倒だ。
でも、なぜわざわざそこまでして、ゼゾッラに行かせるのかが分からない。
「まったく。馬鹿は「はい」だけ言っていればいいのよ。ちゃんと見られるように髪も整えて行くのよ」
「はい」
侍女長もゼゾッラも色々と腑に落ちないものの、クチーレの言う通りにした。
ゼゾッラは侍女長や他の侍女たちにぶつぶつと文句を言われながらも、数年ぶりに身なりを整えて、ペンタメローネ子爵領へと出立した。
****
なんだか嫌な予感がする。
馬車で揺られながら、ゼゾッラは己の肩を抱いた。ぶかぶかのドレスも、久しぶりにはくヒールの高い靴も落ち着かない。
馬車は使用人の使うものではなく、伯爵家の紋章の入った馬車だった。
御者と護衛騎士までいる。使用人以下のゼゾッラには破格の待遇なのが、余計に気持ちが悪い。御者と護衛騎士がにやにやとゼゾッラを見ていたのも気になった。
伯爵領を抜けてペンタメローネ子爵領に入った時には、真夜中になっていた。
早朝から働きづくめで疲れているにもかかわらず、ゼゾッラは緊張のあまり眠ることもできずに、真っ黒な外を眺めていた。
きしむ車輪の音と、黒々とした影を落とす木々、獣の声が不気味で怖い。
ガタン。急に馬車が止まった。
場所は伯爵領と子爵領の境の森だ。御者や護衛騎士たちの休憩だろうか。
そっと窓から様子をうかがうと、彼らは元来た道を引き返していた。馬車からどんどん遠ざかっていく。
「待って」
ゼゾッラは馬車から出ようとした。しかしドアに何かが引っかかっているのか、ガチャガチャと揺れるだけで開かない。
嫌な予感がどんどん強まっていく中、森の中からいくつかの影が出てきた。人だ。あまり人相のよくない男たちが、うすら笑いを浮かべて馬車の方に向かってくる。
「きゃあっ」
ドアに引っかかっていた何かをあっさりと外して、男たちがゼゾッラを引っ張り出した。男の一人が木の棒を持っている。あれを取っ手にはさんでいたのだろう。だから開かなかったのだ。
「おいおい、こいつ本当に伯爵令嬢か? ガリガリじゃねえか」
ゼゾッラの手首を掴んだ男が、太い眉を上げた。
「んんー、いや。こいつはちゃんと手入れして太らせりゃ上玉になるぜ」
別の男がゼゾッラの顎を掴んで顔を寄せた。酒臭い息がかかる。
ゼゾッラは震えた。
男たちはどう見てもまっとうな人間じゃない。
急に着飾らされたこと。にやにやと笑っていた御者と護衛騎士。都合よく現れた賊。
伯爵家の馬車を使わせたのは、盗賊への目印か。伯爵令嬢の不幸な事故を演出するためか。
クチーレは伯爵家の正当な血筋であるゼゾッラを一生飼い殺すでも殺害するでもなく、売り払うことにしたのだ。
そういえば数週間前、第一王子主催の舞踏会の招待状が届いていた。
第一王子は前王妃の子だ。病弱で、六年前から社交界に顔を出していない。ゆえに婚約者も決まっていなかった。
後妻に入った現王妃は、病弱な第一王子よりも我が子の第二王子こそ次期国王にふさわしいと公言しているが、国王は第一王子を継承権第一位に据えている。
第一王子を射止めれば王妃候補である。
今回の舞踏会は婚約者を選ぶために違いないと、姉たちが鼻息を荒く、新しいドレスをねだっていた。
けれど伯爵家は伯父と継母や義姉の散財で借金まみれ。高利貸しにも手を出していて、もめていたのを何度も見た。ドレスを買うお金はないはずなのに、三日前義姉たちがデザイナーを家に呼んではしゃいでいた。
ゼゾッラは、ドレス代のために売られたのだ。
ぽろり、と涙がこぼれた。
たった二着のドレス。ゼゾッラの価値はそれだけ。
どうせあのまま伯爵家にいても、一生こき使われて死ぬ運命だった。
けれど、これはあんまりだ。
このまま売られればどんな目に合うのか、考えたくもない。きっと死んだ方がましだ。
だったらもうなんでもいい。足掻けるだけ足掻いてやる。
ゼゾッラは思い切り、ヒールで目の前の男の股間を蹴った。その足を素早く戻して、手首を掴まえている男の足を踏み抜く。
「ぎゃああ!」
「痛ええ!」
目の前の男が、悶絶する。
手首を掴まえていた男も、悲鳴を上げてゼゾッラから手を放した。その隙に走る。
「このアマァッ」
「ぶっ殺す」
「だはは! 何やってんだ」
「商品殺すんじゃねえぞ。捕まえろ!」
ゼゾッラは必死に走ったが、あっという間に捕まった。ドレスや髪の毛を掴まれて、地面に引き倒される。
それでもゼゾッラは、手足をめちゃくちゃに振り回して抵抗した。
「こいつ!」
頬を殴られて、手足から力が抜ける。もともと空腹でふらついていた体だ。限界はすぐそこだった。
「手こずらせやがって」
こうなったら舌でも噛みきってしまおう。そう覚悟を決めた時。
「なんだ? 鳩?」
暗闇に鮮やかな白い鳩が一羽、男たちをすり抜けてゼゾッラの肩にとまった。男たちもゼゾッラもぽかんと口を開ける。
なぜ鳩が。ゼゾッラの肩に?
『もう大丈夫だぜ、お嬢さん』
「え!?」
注目の中、白鳩が器用に片目をつむる。
その瞬間、突風が吹いた。
「きゃああ」
「うわっ」
「ぎゃっ」
目を開けていられなくて、ぎゅっと閉じた。あちこちでゼゾッラと同じように悲鳴が上がる。
髪の毛やドレスを風が巻き上げるが、不思議と心地よかった。
やがて風が止んで、ゼゾッラはそろそろと目を開ける。
「え? え? えええ?」
目に飛び込んできた光景に、ゼゾッラは混乱した。男たちが伸びてきた木の枝に縛られている。全員ぐったりとしていて、気を失っていた。
『ほらな。もう安全だ』
ゼゾッラの肩で、白鳩が得意気に胸を張っていた。この声は白鳩のものらしい。
「あなたがやったの?」
『風でぶん殴ったのはな! 縛ったのは俺じゃない』
「ヴェント!! アルベロ! 急にどうしたんだ」
男の声がして、茂みから人影が飛び出してきた。
ボサボサ頭のひげ面で、くたびれたローブをまとっている。目つきが鋭く、盗賊の仲間だと言われても違和感がない。
『遅いぞ、バジーレ。見てみろ。お前が遅いからお嬢さんが殴られた』
「なんだ。盗賊に襲われたのか。おい、面倒ごとはごめんだぞ」
『面倒ごとだか何だかなんて知らん! このお嬢さんを助けて差し上げろ』
「はあ?」
『助けなかったらもうお前とは絶交だ。アルベロもそうだろ?』
白鳩が広げた翼を男たちを縛っている木に向けると、しゅるしゅると伸びて人の形をとり、こくんと首を縦に振った。
「あの。ヴェントさん、アルベロさん。助けて下さってありがとうございました」
『礼には及ばねーよ。これくらいどうってことないぜ』
えへん、と鳩胸をさらに張るヴェントと、こくこくと頷く木の人形アルベロ。さっきの風といい、魔法生物だろうか。だとすると彼らの主人はバジーレと呼ばれたひげ面の男のようだ。
「ありがとうございました。バジーレ様。何も持っていないので感謝しか出来なくて申し訳ありませんが、これ以上ご迷惑はおかけしません。厄介者はすぐに消えますので」
立ち上がったゼゾッラは、ふらつきを抑えて淑女の礼を取った。
盗賊たちから、生きて逃げることが出来ただけで感謝しきれない。その感謝を形にして返せないのが心苦しいけれど、ゼゾッラのような疫病神は、さっさと離れた方がバジーレたちにとっていい。
少し休んでから近くの町まで歩いていけば、きっとなんとかなるだろう。少なくとも売られるより悪いことにはならない。
「ちょっと待った」
去ろうとするゼゾッラの腕を掴んだバジーレがひげ面をしかめた。
「うわ、なんだこれは。折れそうな腕だな」
「申し訳ありません」
「なぜ君が謝る」
バジーレがゼゾッラの頬に手を伸ばすと、ほわっと温かくなった。殴られた頬から痛みと熱が引いていく。温かい波動は頬だけでなく、じわじわと全身に広がっていった。とんでもなく気持ちがいい。あまりに気持ち良くて、すうっと意識が白くなっていく。駄目だ。寝てしまう。
音も景色も遠くなっていく中、背中に回された腕が力強かった。
****
目を覚ますと、胸の上に白鳩がちょこんと乗っていた。頭の上にはナツメの木が揺れている。
「ヴェントさん、アルベロさん?」
『よう、お嬢さん』
名前を呼ぶと、白鳩がぴっと片方の翼を上げ、嬉しそうに木が揺れた。
古びた天井と壁の、簡素な部屋だ。ベッドと小さなテーブル、椅子が一つと本棚があるだけ。他は何もない。
椅子には腕組みをしたバジーレが腰かけていた。
「目が覚めたか。気分は?」
「バジーレ様。この度は重ね重ね助けて頂きありがとうございます」
「まだ起きなくていい」
慌てて体を起こそうとすると、バジーレに肩を押さえられた。
「殴られた頬と体の傷は治癒魔法で治したが、体力は戻せない。今日一日は寝ていた方がいい」
「そんなわけには参りません」
「いいから。君に何かあるとこいつらがうるさくてかなわない」
腕を組み直したバジーレが深々とため息をつく。
『おうよ! なにせお嬢さんは俺らの主だからな』
「あるじ? 主はバジーレ様ではないのですか」
ゼゾッラは首を傾げた。
ヴェントとアルベロはてっきりバジーレの使い魔か何かだろうと思っていたのけれど、違うのだろうか。
「残念ながら違う。こいつらは精霊で、協力関係にはあるんだが契約していない」
『俺たちはそんじょそこらの精霊とは格が違うからな! 主は選ぶ』
ヴェントがひっくり返りそうなほど胸を張り、アルベロがわさわさと枝を揺らす。
「お前たち」
バジーレがにゅっと両手を伸ばし、白鳩と木の枝を掴んだ。自分の方に引き寄せてなにやらぼそぼそと話す。三人? はそのまま小さな声で話し合った後、バジーレが「よし」と頷き、ヴェントとアルベロから手を放した。
「主がどうのは気にしなくていい。君、名前は」
「ゼゾッラ・チェネレと申します」
「ゼゾッラ。君が乗っていた馬車はチェネレ伯爵家の紋章があったが」
「はい」
ゼゾッラは目を伏せた。バジーレは面倒ごとはごめんだと言っていた。何があったのかを話して巻きこんではいけない。
バジーレが、ちらりとゼゾッラに視線を送ってからすぐに戻すと口を開いた。
「他に行く当てはあるのか」
「ありませんが‥‥‥」
「なら、しばらくここにいるといい」
「いいえ。そこまでしていただくわけには参りませ‥‥‥」
ゼゾッラは首を横に振る。これ以上お世話になるわけにはいかない。
『はああああ? 「ここにいるといい」じゃねーよ。この馬鹿バジーレ!』
「うおおっ!?」
ヴェントがばさばさと翼をはばたかせた。ナツメの木の枝がバジーレをべしべしと叩き、つむじ風がバジーレをもみくちゃにする。
「何をする!」
『何をするじゃねーよ。お嬢さんに偉そうにするんじゃない。お嬢さん!』
「はいっ」
『俺たちお嬢さんと離れたくない。ここから出て行くんなら、もっとバジーレをめちゃくちゃにしてやるからな』
「なんだその脅迫は‥‥‥」
『駄目か。じゃあ』
前よりもぼさぼさになったバジーレが白い目を向けると、ヴェントがころんとゼゾッラの上で、あおむけにひっくり返った。
『やだやだやだやだ。出て行かないでくれよう』
「……駄々っ子か」
『ゼゾッラがいてくれるって言うまで止めないからなぁぁぁ』
翼をばたつかせ、ほろほろと涙を流すヴェントにバジーレがため息をついた。アルベロも今にも枯れそうなくらい、葉っぱや幹を萎れさせている。
「……この通り、君がいなくなると困る。いてくれないだろうか」
「いいのですか」
ゼゾッラはぱちぱちと目を瞬いた。伯爵家には戻れない。かといって、どこにも知り合いがいないゼゾッラとしては渡りに船だった。
「ああ。そうしてくれると助かる」
「よろしくお願いします」
『やったぁあ』
起き上がった白鳩の翼と木の枝がハイタッチ。白鳩がぴょんぴょんと軽快に跳ね、萎れていた木葉が青々と茂り、踊った。
ゼゾッラの瞳に嬉し涙がにじむ。しかめっ面のバジーレがくしゃくしゃのハンカチで涙を拭ってくれた。ごわごわとしていたけれど、ひだまりの匂いがした。
****
バジーレの住居はジュッジョレ公爵領の端にある森の中の寂びれた屋敷だった。チェネレ伯爵家、ペンタメローネ子爵領とジュッジョレ公爵領は隣接しているのだ。
元は貴族の別荘として使われていたようだが、数十年と放置されていたのをいいことにバジーレが勝手に住み着いたのだという。
貴族の別荘なだけあって広く、部屋数も多かった。ただ、使っている数部屋以外は埃と蜘蛛の巣だらけだ。
元の持ち主が来たりしないのかと心配したが、住んで六年、誰も訪ねて来なかったそうだ。
どう見ても幽霊屋敷にしか見えないし、敷かれていた道もすっかり木や草で塞がっている。元の持ち主も忘れてしまっているのだろう。
ゼゾッラは毎日屋敷の掃除とバジーレと自分の洗濯や料理をして過ごした。
働きっぷりをバジーレに驚かれたが、伯爵家ではこの倍の仕事をしていた。心配もされたが、これくらい今までのことを思えば朝飯前だ。
楽しくて楽しくて、辛さなどまったく感じなかった。いつもそばにはヴェントとアルベロがいて、面白おかしく話をしたり手伝ってくれる。バジーレも何かするたびにぶっきらぼうな口調で礼を言ってくれる。
バジーレは不思議な人だ。
治癒魔法をかけてもらったから、バジーレが魔法使いなのは確かだが、国に登録はしていないようだ。
魔法使いは貴重なので、もし登録していればこんな幽霊屋敷でくすぶってはいない。役職はピンキリだが国に召し抱えられる。
国に召し抱えられれば、それなりに安泰なのに登録していないのは、何か事情があるのだろう。
バジーレの事情を知ろうとは思わないけれど、彼の所作や姿勢から、品格と優美さを感じる。髪もひげも伸ばし放題だけど、近くで見ると目鼻立ちが整っていた。
それに時々バジーレを訪ねてくる壮年の男がいるのだが、質素な身なりをしているものの、平民ではない雰囲気をしていた。しかも彼のバジーレに対する態度は、目上の人へのようだった。
もしかすると、バジーレの身分はかなり上なのでは。魔法使いの登録をしていないのも、家を継ぐためなのではないのだろうか。
そうだとすれば。
いつかバジーレは、ゼゾッラなんかが手の届かない雲の上の人になる。
きゅううっと胸が痛くなって、ゼゾッラは胸を押さえた。
不愛想でつっけんどんなバジーレだが、ふっと笑みを見せる時がある。
ねぎらうように、頬や頭を撫でてくれることもあった。すぐに手を引っ込めてそっぽを向いてしまうけど、そんなところも心がきゅっとなる。
この感情はなんだろう。
「ゼゾッラ、どうした!? 苦しいのか?」
「ひゃいっ」
真後ろから声をかけられ、ゼゾッラは飛び上がった。
「胸を押さえていたが、具合が良くないのか」
「平気です」
「君は平気でなくても平気だと言う」
背中と足裏に腕が回されたと思ったら、ふわりと体が浮いた。ゼゾッラを抱き上げたバジーレがすたすたと歩き始める。
「本当に平気です」
「嘘をつけ。顔が赤い」
「これは‥‥‥」
「ん?」
あなたのせいです、とは言えずに黙ると、バジーレにじっと見つめられて、ますます頬が熱くなった。
顔が近い。思ったよりもがっしりとした腕や硬い胸が気になってしかたない。頬も体も熱い。心臓が早鐘を打つ。
確かに病気かもしれない。
恋、という。
****
参った。重傷だな。
自分で自分に呆れて、バジーレは苦笑した。
ゼゾッラを見つけたのは、ヴェントとアルベロだ。
バジーレは別にゼゾッラを必要としていなかった。
主がいた方が精霊は真価を発揮するが、いなくても力は振るえる。二体の精霊は主不在でも十分に強い。
だが、二体の精霊にそっぽを向かれては困る。虐げられていたゼゾッラが昔の自分に重なったこともあって、彼女を保護することにした。
ただそれだけだったはずなのに、気がつくとゼゾッラの一挙手一投足から目が離せない。彼女の声が心地よくて、彼女の表情が眩しくて、彼女の匂いが落ち着く。
彼女に触れたくて、つい手を伸ばしてしまう。そうして、近づいてはいけないと我に返る。
心と体の弱っている人間につけこんで、利用するのはずるいことだ。血塗られた己の運命に巻き込んではならない。
そう自制して無表情の仮面を被り直すのだが。ゼゾッラといるとつい緩んでしまう。
ヴェントとアルベロの調べから、ゼゾッラの置かれていた境遇は大体把握している。
伯爵家で彼女は酷い扱いを受けていた。
彼女との出会いも、最悪の状況だった。さっさと現場を離れていった御者と護衛騎士と、待ち構えていた盗賊たち。誰の仕込みかなど調べなくても分かる。
ゼゾッラの身の安全を思えば、伯爵家に帰すなどできない。ここで保護することが彼女のためだった。
そして、彼女のためなら、そろそろ手放してやった方がいい。
分かっているのだが。踏ん切りがつかないでいる。
『おいおいおいおい、バジーレ! 何やってんだよ、おめーはよぅ!』
「何がだ」
二週間ほどたったある日、ヴェントが突然ブチ切れた。
『何がだじゃねぇよう。舞踏会まであとたった二か月だぞ。なっんの準備もしてねーじゃねーか』
「している」
そもそも舞踏会を仕組んだのはバジーレだ。準備は何年も前から進めている。
『そっちの準備じゃねぇよ。お嬢さんのだよ。お嬢さんの。この朴念仁め』
ぴたり、とゼゾッラが入れてくれた香草茶を飲んでいたバジーレは動きを止めた。
『あー、じれってえなあ! 俺らを呼んだ時のあのギラギラしたガキはどこいったよ』
「ここにいる」
即答してから茶を置いた。
「だが、そうだな。潮時だ。彼女の準備もしなければな」
ヴェントのおかげで踏ん切りがついた。
伯爵令嬢だから平民としての暮らしは無理だと思っていたが、ゼゾッラは家事全般をかなりの練度でこなす。読み書き計算も問題ない。あれならどこに行っても生きていけるだろう。
『おい、ちょっと待て。俺の言ってる準備と違くね?』
「ああ。復讐の準備はもう済んでいる。彼女がいなくてもいい」
主であるゼゾッラがいなくても、目的をやり遂げるまでヴェントとアルベロは付き合ってくれる。そういう契約だ。
『ばっ、この馬鹿!』
ぶわっと羽を逆立てる白鳩を無視して、バジーレは椅子から腰を上げた。ここから出て行くように告げるために。
「アルベロ?」
ナツメの木が、バジーレの前にわさわさと枝を広げていた。いやいやをするように、ふるふると横に震えると、木の幹に亀裂が入った。
亀裂がゆっくりと開く。
『ばじーれの、ねがいは、ふくしゅう、ちがう』
「は。復讐でなければ、愛国心か?」
『それもちがう。ばじーれ、わかってる』
バジーレはアルベロから顔を背けた。
六年前、強く願った。自分をこんな目に遭わせた人間への怒りと恨みに身を焦がされながら、脳髄を真っ赤に燃やしながら。復讐を誓った。
バジーレの血と願いに、精霊は応えた。
復讐の誓いに覆われて、心の奥底にくすぶる願いに。
復讐が願いのための通過点なら手を貸そうと、幼いバジーレと仮契約を結んだ。
『ぜぞっらも、おなじ。いっしょ』
『そうだそうだ! だいたいな、「お嬢さんのため」って、勝手に決めて勝手に動くのは、自己満足の有難迷惑だっての。小難しいことばっか考えてないで、素直になれよ。禿げるぜ』
「最後の一言は余計だ」
人差し指でアルベロの枝にとまった白鳩を軽く小突く。行く手を塞いでいた木の枝がしゅるしゅると戻った。
「ありがとう」
扉を閉めると、バジーレはゼゾッラの元へ駆け出した。
****
「ゼゾッラ!」
「バジーレ様」
半分に割って種をとったナツメの実をコンポートにしていると、バジーレが息せき切って厨房にやってきた。
「そんなに慌ててどうされたのですか」
鍋の火を止めたゼゾッラはコップに水を汲んで、バジーレに手渡した。
「ありがとう。ああ、しまった。ひげくらい剃ってからの方がよかったか」
息を整えながら、顔をしかめたバジーレがぐいっと水を飲み干す。空になったコップを台に置いて、背筋を伸ばした。
「ゼゾッラ」
「はい」
「俺は君とずっと共にいたい」
「え」
思いがけない言葉に、ゼゾッラは目を見開いた。
いつか手の届かなくなる人だと思っていた。そのうち自分よりもっと相応しい誰かと恋をして結婚するのを、側で見るか、自分から去ろうと思っていた。
「俺といるのは茨の道だ。苦労と嫌な思いをたくさんさせる。君の幸せを思うなら、俺と一緒にいない方がいい」
違う。バジーレと歩む道なら、茨だって楽しい。
「だが俺は、君といたい」
泣きたいほど嬉しかった。視界がぼやけているから、もう泣いてしまっているのかもしれない。瞳が熱い。それ以上に胸が熱い。
「君はどうなのか。正直な気持ちを聞かせてほしい」
「バジーレ様」
「ああ」
ゼゾッラは両手をバジーレに向けて伸ばした。
今やりたことは決まっている。
「抱きついてもいいですか」
驚いたように少し目を開いてから、両手を広げてくれた。ゼゾッラはそれが答えだと思って、胸に飛び込んだ。
「好きです。あなたと一緒にいるのが私の幸せです」
ぎゅうぎゅうとバジーレにしがみついた。温かくて厚みがあって、少し硬い。
「ゼゾッラ」
背中にバジーレの腕が回った。少し息苦しいのさえ、幸せだった。
****
それからは怒涛だった。翌朝いつもの壮年の男が立派な馬車に乗って迎えに来て、ジュッジョレ公爵家に招かれた。なんと男はジュッジョレ公爵その人だった。
ゼゾッラは公爵家の侍女たちに磨かれ、着飾られて、おそろしく甘やかされた。幽霊屋敷でもバジーレたちにわりと甘やかされていたと思っていたけれど、まだまだ甘かったらしい。バジーレがやんわりと怒られていた。
バジーレと共に簡単な礼法とダンスも教わった。
ゼゾッラは一応伯爵令嬢だったため習ってはいたが、いかんせん六年前のこと。すっかり忘れていたけれど、体は覚えていたらしい。少し教わっただけで思い出せた。バジーレの方は習う意味もなさそうだったけれど、一緒に練習できて楽しかった。
瞬く間に二か月が過ぎ、第一王子主催の舞踏会がやってきた。
バジーレは後から入場すると言っていたから、心細いけれど仕方がない。ゼゾッラが招待状を見せると、恭しく会場に通された。
社交界にデビューする前に父が亡くなったため、舞踏会ははじめてだ。緊張する。
豪華絢爛な会場には、着飾った人々がひしめいていた。みなが美しく、煌びやかで気後れする。
毎日美味しいものを食べさせてもらって少し肉がついた。
髪もつやつやになったし、綺麗に化粧を施され、体にあったドレスを着たゼゾッラも少しは見られるようになったはずだけれど。
大丈夫だろうか。どこか変なのかもしれない。
ゼゾッラは心配になった。
というのも、妙にこちらを見てくるのだ。特に若い男性が。
とりあえず、飲み物でも貰って心を落ち着けよう。
そう思って会場を見渡すと、義姉二人を見つけた。
彼女たちはふんだんにフリルとレースのあしらわれた派手で豪奢なドレスを纏っていた。
なんだか虚しいような、悲しいような、複雑な気分になった。
盗賊たちが自分たちの失敗を隠したのか、継母たちがごねて押し通したのか知らないが、無事にゼゾッラを売った金を手に入れて、ドレスを買ったらしい。
視線を感じたのか、二人がこちらを見た。さああっと二人の顔色が変わる。青白くなってから、赤くなった。
「ゼゾッラ! なんであんたが!」
「コロンバの最新ドレスじゃない。あそこは宮廷御用達なのに」
つかつかと二人がこっちにやってくる。今までの条件反射的で身がすくんだ。怖くて動けない。
『おおっと! 大事なお嬢さんに触れるんじゃないぜ!』
「なにこれ!」
「やだー、気持ち悪い」
ぽんっとゼゾッラの胸元から現れた白鳩が、翼で通せんぼをした。
木の枝がゼゾッラの足元から伸びてきて、二人を縛る。
「王家の舞踏会で何事か!」
落雷のような王妃の声が会場を鎮めた。
「衛兵! 不届きにも舞踏会に迷い込んだ魔物を退治せよ!」
『はあああ。俺たちが魔物だって?』
憤慨した白鳩が大きく羽を膨らませ、木がざわざわと枝を揺らしたその時。
「それには及びません」
バジーレの声が朗々と響いた。
正装に身を包み、凛と背筋を伸ばしてこちらにやってくる。
ひげを剃り、髪を整えたバジーレは、この場の誰よりも美しかった。こんな時なのに見惚れてしまう。王妃の後ろでぽかんと口を開けている第二王子より、バジーレの方が格好いい。
「バジーレ王子! そなた、一体どういうつもり!」
王妃が目をつり上げたが、バジーレはどこ吹く風だ。表情を変えることなく、切れ長の瞳を向けた。
「どういうつもりも何も。彼らは魔物ではなく、この国の守護精霊。当然、王妃殿下はご存知のはず」
「ええい、でたらめを言うのではありません!」
「でたらめかどうか、見ているといい。ゼゾッラ、これを」
ゼゾッラの前にやってきたバジーレがひざまずいた。ジュッジョレ公爵が持っていた、布にくるまれたものを床に置く。
「木靴?」
華やかな舞踏会に不似合いな、装飾もなのもない、素朴な木靴だった。けれどゼゾッラはためらいもなく履いていた高価な靴を脱ぎ捨て、木靴に足を入れた。
すると、木靴が輝き、ヴェントとアルベロから光が溢れた。大きくなった白鳩とナツメの木が、神々しく光の鱗粉を纏う。
「見よ! 真の主である聖女の力をうけ、王家の精霊王が目覚めた」
「えっ」
バジーレに強く抱き寄せられながら、ゼゾッラは小さく呟いた。舞踏会でバジーレが色々やるとは言っていたけど、これは聞いていない。
「国王陛下。王妃殿下。我が国は精霊の加護をうけて成り立つ。国王の資格は聖女、もしくは精霊に認められること。それなのに魔物呼ばわりとはどういうことか」
「それは」
「前王妃……俺の母は精霊に認められた聖女だった。母が亡くなっても国王と仮契約は保たれていた。だが六年前、一時的に契約が切れて精霊が離れ、俺の元へ来た。それが何を指すのか。分かるだろう」
この場にいる者たち全員に見えるよう、バジーレは大きく手を振った。
「精霊との契約が切れるのは、契約が成就されたか、契約者が死した時。つまりそこにいる国王陛下は、影。本物は王妃、六年前あなたに暗殺された。この俺もまた、生死の境をさまよったが、精霊とジュッジョレ公爵に助けられたのだ」
「違う、でたらめよ!」
「証拠でしたら、ここに」
ジュッジョレ公爵が手をあげると、二人の男が騎士に連行されてきた。一人は知らないが、一人はゼゾッラの伯父だった。
二人の後ろにはぞろぞろと、見覚えのある人相の悪い男たちが並べられた。ゼゾッラを襲った盗賊たちだ。
「チェネレ伯爵家、ペンタメローネ子爵家。両家と王妃との密書です」
「暗殺者と影の手配、謝礼についての証言・文書を押さえている。チェネレ伯爵家については、他にゼゾッラ伯爵令嬢襲撃の容疑もかかっている」
「あぁああぁぁぁ」
王妃がその場に崩れ落ちた。
「この件に関わった全ての者に、相応の刑を科す。連れて行け!」
「は!」
騎士たちが王妃たちを引っ立てる。
「おのれ、あの時殺し損ねたからっ」
「私はただ、命令通りにしただけだ!」
「嘘だろ、おい! 私は第二王子だぞ」
「ゼゾッラ、助けてくれ!」
「うそ、うそでしょ!!」
「ねえ、謝るからなんとかして」
騒ぐ王妃たちだったが、有無を言わさず引きずり出されていった。
「……六年前、王妃に殺されかけた俺は強く願った。王族である俺の願いにこたえて、精霊が現れた」
ゼゾッラを抱きしめるバジーレを見上げた。
王妃は息子である第二王子を次期国王にしようとしていた。前王妃の子であり、王位継承権一位のバジーレは、王妃にとって邪魔者だった。バジーレを後継者に考えていた国王さえも。
バジーレの復讐は終わった。願いがなくなってしまったら空っぽにならないだろうか。
きゅっと背中に回した手に力をこめると、小さく笑う。
「心配するな。俺の願いはゼゾッラの思っていることじゃない」
穏やかな顔つきで、優しくゼゾッラの頬を撫でる。ひげがなくなって髪を上げているから、前より表情がよく見えた。
「復讐は願いを叶えるための通過点なだけだ。俺の願いはその先」
『「幸せになりたい」だな!』
『しあわせ』
バジーレが続きを言うより早く、ヴェントが元気よく割りこみ、アルベロが木の幹にできた口のような穴から低い声を出した。
はじめてアルベロの声を聞いたゼゾッラは、びっくりだ。
「お前たちが言うか」
『おうよ! 俺たちとお前の契約だからな』
白鳩が胸を張った。反り返りすぎて後ろに倒れそうで、少し心配になった。
「聞いた通り、俺の願いは幸せになること。ゼゾッラといると俺は幸せだから」
ゼゾッラの手をとり、バジーレが微笑んだ。はじめて見る、とろけるような笑みだった。バジーレといると、たくさんのはじめてがあって楽しい。
「さあ、仕切り直しだ。音楽を」
バジーレが手を振ると、演奏が始まった。
「ゼゾッラ。俺と踊っていただけませんか」
練習の時と同じように恭しく差し出された手を取る。すっかり体が覚えたステップを踏んだ。
「じゃあ私たち一緒ですね」
くるくると回りながら、ふふっと笑うと、彼の瞳の中の自分が幸せそうに笑った。
「私ずっと、死んだ方がましって思って生きていました。でもバジーレ様に助けて頂いてから、毎日楽しくて楽しくてたまらないです」
舞踏会の会場をグルグルと鳴きながら白鳩が飛び、揺れる木の枝にナツメの実がぽんぽんとなる。
「バジーレ様といると、幸せです。ずっとずっと一緒にいて下さい」
「もちろんだ。離れてくれと言われても離さない」
舞踏会の後日。
新国王バジーレと聖女ゼゾッラの戴冠と結婚式が盛大に行われた。
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拝啓、死んだ方がましだと思っていた私へ。信じられないでしょうけど、今幸せよ。
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