後編『メシアと呼ばれた青年』
5年の月日が経過する。
季節は巡る。されど世界は巡らない。
代わり映えのない毎日。誰にも邪魔されない二人だけの世界。
いつまでも、いつまでも、この日常が続けば良い。
悪夢はもう見飽きた。もうこりごりだ。
だから良いよね……お母さん。
ずっとこの夢見心地な毎日に溺れていたい。
――だけど、いつも僕の願いとは裏腹に、変わらない日々は突如として終わりを迎えるんだ。
あの夜も、あの夜も、消え去る。奪い去られる。
「……遅いな。どこまで行ったんだろ」
夜になってもメアが小屋に戻ってきていない。
夜は暗く、山に迷いそうになるので、暗くなる前には戻ってくるようにいつも言っていた。
小屋の周りに人気はない。
今は静けさが苦手だ。
僕はメアを探しに出た。
この暗がりだ。月明かりがあるとは言え、流石の僕も迷ってしまうかもしれない。
それに……メアがこの森の外に出た思うと自然と駆け足になった。
「メア!」
しかし、その不安は杞憂に終わった。
直ぐにメアが見つかったからだ。
メアは夢遊病のように山を登ってきていた。
「どこに行ってたんだよ! 危ないだろ!」
「……ごめん、シア。思ったより下ってたみたい」
「そっか、でも無事で良かった。さあ、帰ろうか」
メアの手を引いて戻ろうとすると、「シア」と弱々しく名前を呼ばれる。
「麓にさ、見えない壁があって……先に進めな――」
「変なことを言うなよ。多分、使えれてるんだよ」
「シア……私、大切なこと忘れてる気がする」
メアは今にも泣き出しそうだった。
そんな彼女の手を無言で引っ張って、小屋まで帰ってくる。
小屋に入ろうとした時、メアの足が止まった。
潤う瞳で、満天の星空を見上げている。
「ねえ――ちょっと寝転んで、星空を眺めない?」
「なんで……星なんていつも見てるじゃん」
「たまには寝転んでゆっくり星を眺めるのもいいんじゃない?」
心臓が大きく鼓動した。
ずっと、星を眺めようなんて言わなかったのに。
「ほら、早く」
気がつくとメアは寝転んでいて、隣に寝転ぶようにと地面を叩いていた。
僕は吸い込まれるように寝転ぶ。息苦しい。心臓がはち切れんばかりに波打っている。
「手、繋がない?」
「…………」
「ほーら」
メアが僕の手を握る。
逃げられないように指を絡ませてくる。
「ねえ、ドキドキするね。シアはどう?」
「…………」
「前にもこういうことあったよね」
「……あったっけ、そんなこと」
「あったよ。本当は覚えてるんでしょ? あの夜、元の世界に帰りたいって泣いてシアを困らせたよね」
覚えている。覚えているのに、思い出したくない。
ずっと記憶に蓋をして覚えていないふりをしていたい。
「あの夜――私は死んだんだよね」
「何バカなこと言ってるんだよ! そんなわけ……ないだろ」
必死に否定する僕を見て、メアがふっと微笑む。
忘却の檻に閉じ込めていたはずの記憶が、僅かに蘇る。
「ずっと忘れてた。なんで私はこの世界に来たのかって。私は、ありがとうって言いに来たんだよ。あんなお別れ嫌だったから。だから私は――」
「きっとタチの悪い悪夢でも見たんだよ。だから、今夜はもう休もう。今日は良い夢が見れるから」
「ううん。夢は、こっちなんでしょ。――この世界は、シアが作り出した夢の中の世界。」
メアはもう全てが分かってるかのような口ぶりだった。
僕の能力のことは秘密にしていた。
でも本当は気がついていたのか……自分が一人じゃ眠れないことに。
「シア、言ってたよね。夢の中に私が出てくるって。あの時は偶然だと思っちゃったけど、本当はね、私も同じ夢を見てたんだよ。夢の中で、シアの手を引っ張って、必死に何かから逃げてた。――私にはきっと、誰かの夢の中に潜る力があるだよ。だから私ら、この世界に来ることが出来た。この世界で暮らした日々は、夢物語なんかじゃない」
鮮明に思い出せる。この世界での日々のこと。
これが夢なわけがない。
嘘だ。本当は分かってる。僕は、自ら夢の世界に逃げ込んだんだ。
メアが死ぬ。その事実を受け止められなくて。
「……でも、夢は目覚めなきゃ。戻らないと、本当の世界に」
「…………なんで、そんなことを言うんだよ。元の世界に戻れば、メアは死ぬんだよ!? この世界は安全だ! 誰にも邪魔されない! 絶対に、僕が幸せにしてみせるから!」
僕は起き上がり、メアの手を握って必死に訴えた。
「うん……ありがと。私は幸せだったよ。でも、いつまでもこうしてはいられないから。私を――この世界から解放して」
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! なんで、母さんもおじさんもメアもすぐにいなくなるんだよ! もう一人には戻りたくないんだよ!」
ずっと一人だった。孤独なんて味わったことがなかった。
なのに、メアと出会って、初めて孤独が怖くなった。
一人は嫌だ。たとえ永遠に変わらない日々を送ることになっても、僕はメアと一緒にいたい。
「ダメだよ……辛くても、前に進まなきゃ」
それでも、君はそう言うのか。
僕が望んだから、この世界は存在する。
メアが『夢渡り』で僕の夢に入ってきたということは、彼女は自らの意思でこの世界を脱することができる。
「私は、もう十分に幸せだったよ。ただ1つの後悔があるとしたら、あの言葉に返答できなかったこと」
「やめろ……」
「言ってくれたよね。私のことが好きだって。一緒に生きていこうって。嬉しかったのに、声が出せなかった」
僕達はあの夜、襲撃されて逃げ惑った。
その途中、奴らの撃った銃弾がメアの胸を貫いた。
失われていく体温に、僕はただ泣き叫ぶことしかできなくて能力を使ったのだ。
永遠の夢の中に閉じこもっていたいと願ってしまった。
だけど、君はこの夢の中に入ってきた。
それは僕と共に夢の中で生きることを望んだんじゃない。
彼女は僕を夢から覚めさせるためにここに来たんだ。
「だから、返事しにきたんだ。――私も、シアのことが大好きです。いつまでも、一緒にいたかった」
「やめてくれ……」
「だけど、私は死んじゃったから。私が君を過去に縛り付けて、君が前に向けずにいるのなら、私はさっさとおさらばしなくちゃ」
「やめて……いかないで……置いてかないで……」
僕に彼女を止める力は無い。
「いいの? 私はもう言っちゃうけど。最後まで情けない姿見せるの?」
そうか。僕はメアのことを子供だと思っていた。
でも逆だ。子供なのはずっと僕だ。
僕は大人ぶって、君に甘えていたんだ。
心配だったから。今日まで気づかない振りをしていてくれたのかもしれない。
だったら、ただを捏ねる子供のように最後までみっともなく縋りたい。
でも、メアは多分行ってしまう。
たった数年でも、一緒に暮らした関係だ。
彼女は一度やると言ったことは実行する。
もうその意思は固まってしまっている。
今なら僕にできるのは、メアを安心させてあげることくらいだろう。
だから僕は笑ってこういうのだ。
「ありがとう、メア。君と一緒に暮らせて幸せだった……さよなら」
「うん。うん……私も、楽しかったよ。」
ここで初めてメアは涙を見せた。
そして笑顔で僕に抱きついてきた。
「ありがとう」
瞬間、彼女の身体は光の粒となって夜空に霧散した。
世界が崩壊していく。
僕たちが暮らした夢の世界が、バラバラと崩れていく。
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夢から目を覚ます。
辺りは今だ薄暗く、星空が広がっている。
腕の中にはまだ体温の伝わる彼女が眠っている。
……幸せな夢を見ているかのようなやすらかな表情だ。
僕は涙を拭うと、彼女を木に寄りかからせて上着を被せ、
「……おやすみ」
そういつものように呟いた。
夜は冷えるが、もう少し星を見させておいてあげよう。
その場を少しだけ離れると、数十名ほどの大人が倒れていた。
酷い悪夢にうなされているような表情で死んでいる。
この力がどれほどの範囲に及んだのかは分からないが、おそらくこの山にいた人は皆同じようなものだろう。
夢の中での死で脳が実際に死んだと錯覚し、生命活動を停止させたのだ。
もうこの山にはいられないし、あの小屋に戻るつもりはなかった。
僕はただ、あてもなく夜を歩き続けた。
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星が煌めいた。
それは凄まじい速度で、だだっ広い平原に落下してきた。
「ここは……」
少女は辺りを見渡すと、途端に不安で泣き出しそうになった。
「大丈夫かい。どこも怪我はない?」
「……え」
優しい声に、少女は落ち着きを取り戻す。
そこにはフードを被った男が、少女に手を差し伸べていた。
「……あの」
「おっとごめん。フード被ったままだったね。大丈夫だよ、怖がらなくて。僕がいるから安心して」
フードを脱いだのは、18歳くらいに見える大人しそうな風貌の青年だった。
少女はその優しそうな笑みを見て、警戒心を僅かに緩める。
「それで君の名前は?」
「私……トア」
「そっか。トアちゃんか、良い名前だ。今は何もわかんなくて不安だろうけど、今は何も聞かずに僕と一緒に来てほしい」
「あの、お兄さんのお名前は……」
少女が恐る恐る問うと、名乗り忘れたことに照れくさそうに微笑みと、自信に溢れた目つきで青年は名乗った。
「僕はシア、ただの旅人だよ。そしてこの世界を呪いから解放して、救世主になる男だ」