前編『眠れぬ夜とメシア』
短編のつもりでしたが少し長いので長編です。
ある日、夜空から星の砂が降ってきた。
月の光を浴びて乱反射するそれは、蛍火のように儚げだった。
人々はそんな幻想的な光景に恍惚としながら『今夜は良い夢が見れそうだ』なんて、冗談を零しながら呑気に酒を飲み交わした。
――その日、その夜、人々は眠ることができなくなった。
眠気は起きず、目を瞑って体を横にしても、意識が深層へと吸い込まることはなかった。
人々は睡眠という休息を失い、現実の逃げ場を閉ざされた。
幸い、眠らずとも人は死ななかった。
しかし、精神的な疲労に人類は耐えられなかった。
人々の目から生気は失われた。
毎日、至る所で発狂する声が響いていた。
幾人も憩いの場を求めるように自死した。
たった5年のうちに人類は半分ほどに減少し、子供や赤子が姿を消した。
眠れない彼らは大人には成れず、いつしか子を作るのは禁忌とされていった。
それから更に5年、時は動き始める。
ある小さな村で元気な産声が上がった。
そして赤子は泣き疲れて眠ったのだ。
人々は歓喜した。
ついに長年に渡る呪いが解けたのだと。
だが結局、その赤子以外は眠らなかった。
元気よく育っていったのはその子だけだった。
そして、その子は不思議な力を秘めていた。
その子の近くにいる者は、同じように眠りに誘われるのだ。
村人たちは彼を神の子だと宣った。
眠りを忘れた哀れな子羊を救済するメシアだと。
『メシア様! どうか我らを深き眠りに誘ってください!』
その子が5つになる頃には、彼はその村の教祖のように崇められ、救いを乞う信者たちを眠らせる毎日を送っていた。
彼には周囲の人を眠らせるだけでなく、触れた者に望んだ夢を見せることができたのだ。
『メシア様! どうか私に、死んだ妻と娘の夢を見せてください!』
彼は幸せな夢を見せる能力の代償として、身の毛がよだつほどの恐ろしい悪夢を見ていた。
一日中信者に睡眠という休息を与え、クタクタに疲労したあとは悪夢を見る生活に、彼の心はどんどん荒んでいった。
唯一の心の支えであったのは、彼の真の名を呼ぶ母親だけ。
何不自由ない生活を与えられ、大人の望み通りに救済を施す毎日。
だけど恐ろしい悪夢も、母の胸に抱かれていれば怖くはなかった。
こんな日々が続けばいい、それだけが彼の願いだった。
『貴方様がメシア様であられますか! 東方から噂を聞き付けてやって参りました! どうか、私を眠らせてください!』
しかし、ある時を境に、村の外から救いを求めた人々がやってくるようになった。
どこからか情報が漏れたのだ。
村の者はこうなることを恐れて箝口令を敷いていた。
もしメシアの存在が広まれば、自分たちの救済の番が回ってこなくなるかもしれないと。
村の者はメシアの力を独占したかった。
そして、今度はその力を利用して貧しい村を潤そうと考えた。
供物や調度品と称し、訪れるものから莫大な金を請求し、金のない者は強制的に働かせるようになった。
お陰で村は潤い、教団はより権力を強めていった。
その分、メシアは休む暇なく力を使わないといけなくなった。
『もう無理です! この子の身体がもちません!』
『黙れ! 母親と言うだけで贅沢な暮らしを与えてやっているんだ! お前だけなら殺してもいいんだぞ!』
『さあ、メシア様。まだ大勢の信者が待っております。休んでいる暇などございませんよ』
意思の持たないメシアは、それに従うしかなかった。
疲れ果てるまで力を使い、その代償に悪夢を見る毎日。
日に日に疲弊していく我が子を憂い、母親はこの子を村の外へと逃がそうと考えた。
――その夜、村が焼き討ちにあった。
メシアの力を我がものとしようとする連中と、教団の圧政に不満を抱えていた信者たちが結託して、メシアを奪おうと画策したのだ。
『メシアはどこだ! 逃げたのなら探し出せ! 母親の方は殺しても構わん! 教団の幹部も皆殺しにしろ! ――休息の眠りを等しく我らのものに!』
母親は悪夢に魘される我が子を抱えて村から飛び出した。
『ごめんね。おお母さんが馬鹿だったよ。もっと早くに逃げ出していれば、こんなことにはならなかったのに』
『いたぞ!』
『――っ! ごめんね……おお母さん、一緒にいられなくて』
鬼が迫り来る。
限界と判断した母親は、メシアを近くの川へと投げ入れた。
この暗さだ。助からないかもしれないが、見つかることもないだろう。
『お願い、生きて――愛してる――』
そして、悪夢の夜が明ける。
メシアが目覚めた時、どこかの下流にいた。
何があったのか、何となくメシアは理解していた。
濡れた服も身体も、温かい朝日が包み込んでくれた。
されど心だけは冷たいまま、メシアはうつ伏せに倒れて涙を流した。
「悪夢が終わってくれないよ……おお母さん」
齢8歳の少年メシアは、その日家族を失った。
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暖炉の中で薪がパチパチと弾ける。
びっしょりと汗でシーツが濡れて気持ちが悪い。
「……また、あの日の夢だ」
今もたまに夢に見る。
5年前、僕がすべてを失った日のことだ。
服を着替えると、僕は斧を持って小屋を出た。
夜露を浴びた草木を踏みしめ、まだ涼しさの残る夜明けの世界に繰り出した。
一人になってから、随分と時が経つのが遅い気がする。
――5年前、川で倒れていた僕はある老夫に拾われた。
その老父は、人を信じられず会話もままならなかった僕を孫のように可愛がってくれた。
最初は僕の力を知って、是が非でも手元に置いておきたいのだろうと思っていた。
いつかまた道具の利用され、売り飛ばされるのだと、何度も逃げ出そうとした。
でも結局、最後の最後まで僕の居場所を漏らすことなく、この小屋を残して安らかに眠った。
おじさんは、僕に愛情と生きる術を与えてくれた。
だから今日を人間らしく生きることが出来るのだ。
仕掛けた罠には兎が一羽かかっていた。
宙吊りにされ、逃げ出そうと必死にもがいている。
「ごめんな。せめて痛くはしないから」
僕は兎を眠らせると、小さな刃で命を刈り取る。
この力はどうやら人以外の生き物にも効くらしい。
「ありがとう」
罠を張り、獣を狩り、命を頂く。
樹木を伐採し、木材を得る。
近くの池には魚も生息している。
そうやって自然の恩恵を受けて一日を生きる。
おじさんが教えてくれたように、僕は今日を生きていくのだ。
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「……なんだ、あれ」
ある夜のことだ。
突如空が奇怪に光り、星が煌めいた。
直後、凄まじい速度で何かが森に落下してきた。
地響きがして、数十メートル先の空に黒煙が登った。
その付近に行ってみると、周囲が更地になっていた。
そして――その中心に、人がいた。それも、小さな女の子だった。
「……何が、どうなってるんだ」
恐る恐る近寄ると、音に気づいたのか少女が目を覚ました。
思わず後ずさりして、持っていた斧を構える。
「……あれ、ここどこだろう」
少女は辺りをキョロキョロを見渡し、僕に気がついた。
「き、君は誰? どこから来たんだ?」
「私? 私は……メア。えっと、どこからだろう?」
「どこからだろうって……覚えてないの?」
「うん、そうみたい。それで、君のお名前は?」
名前――。名前は――。
『……シア? シアくんか。良い名前だ』
迷うことは無い。今はおじさんに貰った名前がある。
「僕は……シア。この山で一人で暮らしてる」
「そっか、シア君か。いい名前だね――ところで、シア君って何歳?」
「……? 僕は13歳だよ」
「じゃあ、私の方が一つお姉さんだ」
こんな状況なのに、少女は蕩けるような表情で微笑んだ。
――それが、メアとの出会いだった。
メアは不思議な女の子だった。
感情を出すのが苦手な僕とは対照的に、喜怒哀楽の表現が大袈裟な女の子だった。
そして彼女は、底なしに元気で笑顔を絶やさなかった。
「じゃあ、記憶が戻るまでは君と一緒に暮らさせてもらうよ。正直、この小屋狭くてホコリっぽくて嫌だけど、居心地はそんなに悪くないから」
気がつけばそんな話で纏まっていた。
ほとんどメアが主体が決めたようなものだ。
そして一つしかないベッドに寝転がった。
「シア君も私も身体小さいから、二人くらい余裕だって」
「それはいいけど、眠れるの?」
「寝心地はそんな悪くなさそうだけど?」
「そうじゃなくって。その、眠たいの?」
「もう夜だよ。まだ眠たくはないけど、眠らないと」
何をバカなこと言ってるの? とばかりの純粋な瞳。
その時、僕の中にある希望が生まれた。
自分以外にも同じ力を持つ者がいるのかもしれない。
そうでなくとも、眠ることができるかもしれない、と。
僕はメアのことが気になりつつも、隣に寝転んだ。
大人一人用のベットは手狭に感じた。
メアとは反対の方向を向き、僕は眠るふりをした。
隣で眠ってしまうと、否応なしに能力が発動してしまうから。
「おやすみ」
「……うん。おやすみ」
目を閉じると、もしかすると永木の呪縛から解放されるのかもしれないと、淡い期待に心が躍った。
次の日、一睡もできなかったと嘆くメアを見るまでは。