「ふみちゃんは、ぼくのめんこなんだ」
旅館の裏手には、鎮守の森と呼ばれる、鬱蒼とした暗緑の森がある。
清作は鎮守の森を知り尽くしている。文子を連れて、色々な遊び場に連れて行ってくれた。他のこどもたちは鎮守の森には寄りつかず、そこは二人だけの場所だった。
太陽がぎらぎらと、空も地上も焦がす真夏日。文子と清作は、鎮守の森を清らかに流れる川で川遊びをした。
踝が水に浸かる程度の、浅瀬の砂利の上を、ばしゃばしゃと飛沫を上げて歩いたり走ったりする。清作は文子の手を引いて先を行く。調子外れな歌を歌いながら。
「どんな時でもー、川を走るとー、飛沫が上がってー、なんか気持ちいいー。そんな気がするー。だけどー、新学期がー、もうすぐー、そこまでー、来ていたりするー。ああ、憂鬱だー、新学期ー。学校なんかー、行きたくなーい。ずーっと、夏休みならー、ふみちゃんとー、毎日毎日ー、遊んでいられるのーにー」
「なぁに、その歌」
「なんか、ぼくが今、つくった歌。どう? どう?」
「変な歌!」
「変かぁ」
「変。でも、なんかいい。ふみは好き!」
「ほんと? やった、嬉しいっ!」
二人はきゃっきゃとはしゃぐ。水飛沫で濡れたスカートを絞りながら、文子は清作に訊ねる。
「さっくん。新学期、ゆううつ?」
「うん」
「なんで?」
清作は唇を尖らせ、水を蹴散らした。
「学校って、退屈なんだよ」
「ふみ、学校のお話、アニメとか、ドラマで見たことあるよ。楽しそうだったよ」
「そりゃあ、アニメとかドラマの学校は、楽しそうに見えるさ。楽しそうに見えるように、作ってあるんだもん」
「さっくん、テレビみないんでしょ? 知ったかぶり?」
「えへへっ、知ったかぶり、バレた?」
特殊な生い立ち故に、清作には浮世離れしたところがある。清作は漫画を読んだことがなくて、アニメを観たことがないらしい。
この村では、漫画が手に入らないとか、アニメが放送していないとか、そういう理由ではない。清作は、こどもが好みそうなあれこれに、あまり興味がないらしい。
流行の雑誌を読まないし、話題のドラマやバラエティー番組も観ない。
つまり、同じ年頃のこどもたちと、共通の話題がほとんどない。
「ねぇ、さっくん、おともだちと、おはなし、しないの? ドラマとか、アニメとか、映画とかの?」
文子が小首を傾げて訊ねると、文子の真似をするように、清作も小首を傾げた。
「ふみちゃん、ぼくがそういうの知らねぇと、困る? つまんない?」
文子は目をぱちくりさせた。そして、ぶんぶんと、頭がくらくらするくらい、頭を振った。
「ううん、ふみ、困んない。さっくん、わかんなくてもふみのお話、ちゃんときいてくれるし。ドラマとかアニメとか映画とか、そういうのじゃない、もっとすごいこと、いっぱい知ってるし。お話してくれるし。つまんなくないよ、楽しいよ」
「そう? いがった! んじゃ、今のままでいいや。ぼくの友達、ふみちゃんだけだもん」
清作は綺麗に並んだ白い歯を見せて、にかっと笑った。
清作が通う小学校は隣町にあって、村の子は皆、バスで通学していた。村の子は清作を「神様のめんこ」「取り替え子」だと言い、外の子は清作を「変わり者」だと言った。ふつうではない清作には、親しい友達がいないらしい。
文子は、清作の初めての友達で、たった一人の友達だった。
清作はいつも上機嫌だけれど、その後はいつにもまして上機嫌だった。川遊びの帰り、二人は旅館に立ち寄った。清作が文子の為に、てずから濃い目のカルピスをつくると言い出したからだ。清作がカルピスと格闘していると、清作の母がやって来て、文子にこっそりと耳打ちした。
「清作、変わってるっしょ。すごい、ばあちゃん子でねぇ。あの子、ばあちゃんの言うことば、なんでも真に受けっから。うちのばあちゃん、信心深いって言うか、迷信家なのよ。『ぼくには、ふつうさする才能がないんだ』なんて言って、辛気臭い顔してさぁ。ばあちゃんと一緒に家さ籠ったり、ひとりで鎮守の森さ行ってなんかしたりして。友達ばつくろうとしないの。だから、文ちゃんが、清作の友達になってくれて良かったよぉ。あの子、生まれ変わったみたいに、にこにこして、楽しそうにしてっから。これからも、仲良くしたげてねぇ」
文子はこっくり首肯いた。もとより、そのつもりである。
文子は漫画を読むのも、アニメを観るのも好きだ。母の影響で、一昔前の作品を好んでいた。初恋のひとは、漫画の登場人物だ。主人公たちの敵だけれど、お姫様を一途に想う美男である。文子の夢は、彼が恋慕うお姫様になることだった。
文子がその恋心を母にうちあけると、母は苦笑した。友達にうちあけると、笑われた。いじめっこにはからかわれ、バカにされた。
清作は、文子の恋心を笑わなかったし、からかわなかったし、バカにしなかった。そのかわり
「でも、ぼくのほうがカッコいいよね!?」
やたらめったら、文子の愛しの彼と張り合ってきた。文子が「さっくんより、あのひとのが百倍カッコいい」と教えてあげると、清作は膝から崩れ落ちた。
文子が漫画やアニメの話をすると、清作は興味津々の様子で相槌をうったり、質問や感想を交えたりしながら、聞いてくれる。
でも、登場人物の名前をしょっちゅう間違えるし、自分では読んだり観たり、しようとしない。そして、文子の愛しの彼の名前を「ポマード様、ポマード様」としばしば呼び間違える。
最初のうちは、律儀に訂正していた文子だったけれど、清作がいつまでも間違え続けるので、今ではわざとじゃないかと疑っている。
だから、清作がうちひしがれると、文子はほんのちょっぴり、いい気味だなんて、意地悪なことを思ってしまうのだった。
清作は変わっている。好奇心旺盛で、博識で、常識にとらわれない。そういうところが、他のこどもたちには、気味が悪かったのかもしれない。けれど、文子にはとても面白かった。
文子と清作は、手を繋いで、様々な冒険に繰り出した。こどもらしい、昼過ぎに始まって夕方に終わる、他愛のない冒険だ。清作は「逢魔時には、大人と一緒に、守られた家に籠る」という祖母の教えを忠実に守っている。教えを破ったのは唯一度きりだと言う。
「ふみちゃんも、逢魔時には、外さ出ちゃだめだよ。ふみちゃん、めんこいから、神様さ目ぇつけられっかもしんない」
今度、ふみちゃんのお母さんさ、そやって伝えとくね! と言う清作に、文子は何と返事をしたものかと考えあぐねているうちに、清作は話の穂を継ぎ変えていた。
「めんこい」は、北海道の方言で「可愛い」と言う意味だ。
清作は、ことあるごとに「ふみちゃんはめんこい」と言う。文子の両親も「文子は可愛い」と言う。
しかし、客観的に見ると、文子は特別に可愛い女の子ではない。何処にでもいる、ふつうの女の子だ。
幼稚園で、絵の上手な友達が文子の顔を描いてくれたことがあった。その絵を見た別の友達は「ふみちゃんは、そんなにかわいくない」と、こどもならではの無邪気な残酷さをもって、断言した。
男の子にブスと罵られたことがあった。それを聞いた友達は「そんなことない、ふみちゃんはブスじゃない」と、言い返してくれた。
文子の顔は、そういう顔だ。
両親が文子を可愛い可愛いと褒めそやすのは、親の欲目というものだろう。では、特別に美しい清作が文子を「めんこい」と褒めそやすのは、何故なのか。文子は首を傾げるばかりだった。
清作は神隠しにあわないように、細心の注意を払って暮らしている。それでも、清作の周囲では、多かれ少なかれ、不思議な出来事が起こった。
たまたま見かけた野良猫を追いかけると、振り返った野良猫が女の子の顔をしていたり。
帰り道、擦れ違った見知らぬこどもたちの足元にあるはずの影がなかったり。
ひとりだったら、怖くて泣いてしまうかもしれない。けれど、隣にいる清作が楽しそうに笑っているから、文子も楽しくて笑っていた。
文子が村の子になって、季節は巡って、文子は清作とおなじ小学校に入学した。清作の誕生日を十日後に控えた、麗らかな春の日。「今年は誕生日パーティーしようね!」と話ながら手を繋いで歩く、いつもの帰り道。
「ねぇ、さっくん」
「なぁに、ふみちゃん」
「不思議なことって、楽しいねぇ」
文子がそう言うと、清作は瞠目した。
「本当? 怖くね? 無理してね?」
「ほんとだもん! さっくんと一緒なら、ふみ、怖くないもん!」
「ほんと? ……あっ」
「えっ? なになに、なんかいる?」
「えっとね……うんとね……ちょっと待ってね。今、何て言ったらふみちゃんが怖がるか、考えてっから」
「なにそれ! さっくん、いじわる言っちゃやだ!」
文子が頬を膨らませると、清作はえへへと笑い、文子の頬をつんとつついた。
「ふみちゃんはめんこいねぇ」
文子は背伸びをして清作の頬を人差し指でついた。
「さっくんのがめんこいもん!」
「そりゃ、ぼくはめんこいけどさぁ。ふみちゃんは、もっとめんこいよ」
「ふたりともめんこい?」
「うん、めんこい」
「めんこめんこ?」
「めんこめんこ」
「えへへ!」
「えへへっ!」
二人は見つめ合い、笑い合う。清作は文子の手をぎゅっと握った。きらきら光る宝石の瞳で文子を見つめる。
「ねぇ、ふみちゃん」
「なぁに? さっくん」
文子が小首を傾げると、清作は文子と向き合って、文子の両手を両手で包み込んだ。文子の目を真っ直ぐに見据える。
「僕さぁ、神様のめんこさされて、ありがてぇと思ったこと、ねがったんだけどさぁ。ばあちゃんが、一生懸命色々やってくれっから、こっちさ留まっていられっけど、それでも、面白くねぇこと、結構あっから。でも、こげして、ふみちゃんと会えたのは、神様のおかげなのかもしんね。ふみちゃんは、良い迷惑かもわかんねぇけどさ。でも、ぼくはすんごい、嬉しいんだ。したっけ、ありがてぇなって、はじめて思った」
「……うん?」
「あはは、ちょっと難しい? えっとね、つまりねぇ……ふみちゃんは、ぼくのめんこなんだ。だから、ずっと、ぼくの一番のなかよしでいてね、ってこと」
「ぼくのめんこ」とは、「ぼくの可愛い子」という意味だ。文子ははにかんで笑い、こっくりと首肯く。
「うん!」
「ほんと? いがった! ふみちゃん、ずっと仲良しでいよう! これからは、学校でも一緒にいられっから、楽しみだなぁ!」
文子はうんうん、と笑顔で相槌をうつ。文子は先月、清作の通う小学校に入学したばかりだった。ピカピカの真っ赤なランドセルを背負う、ピカピカの一年生である。清作と一緒に登下校していた。
おませな女の子たちが「文子ちゃん、三年生の清作くんと付き合ってるんでしょ!」と騒ぎ出すくらい、二人はいつも一緒、べったりくっついて過ごしている。
文子は眉間にぎゅっと皺を寄せて、うきうきする清作に釘を刺した。
「でも、さっくん。一年生の教室にずっといたらダメだよ。先生困っちゃうよ」
「えー? ぼくは困んないけど」
「先生困ったら、ふみも困る!」
「えー……うん、わかった。予鈴が鳴って、授業が始まるってなったら、三年生の教室さ戻る。そんで、休み時間はふみちゃんとこさ行く!」
「うん、ふみ、待ってる!」
「……ねぇ、ふみちゃん」
「なぁに? さっくん」
「ずーっと、一緒にいようね」
「うん!」
文子はこっくり首肯く。文子は清作のことが大好きだ。ずっと仲良しでいたい。ずっと一番の友達でいたい。ずっと一番の友達でいたい。
文子の返事を聞いた清作は、綺麗に微笑んだ。
そうして、瞬きの間に。
二人の帰り道は、ヤグルマギクの花が咲き乱れるお社に変わった。
文子は我が目を疑った。世界が変わってしまった。