高校生活2
ーーえっ、えっ、えっ? なんとか言えば、って? 言えないよ、なんにも、言えない。黙ってやり過ごす? そんなの無理! 無視すんなコラ、ってなる! なんか言わなきゃ。なんか、なんか……なんとか、とか? 言ってみる? 無理無理無理、そんなことしたら……そんなことしたら! きっと、最悪な目に合わされるっ!
震え上がる文子を冷ややかな目で見て、女子は舌を打ち鳴らす。
ーー舌打ちされた……
胸郭に手を突っ込まれて、心臓を鷲掴みにされたかのようだ。文子は震え上がる。
誰もに好かれたいとは思わないけれど、出来ることなら、誰にも嫌われたくないと思う。でも、そんなの無理に決まっている。卑屈で、臆病で、何事にも消極的な文子を、見ているだけで苛立つと言う人は少なくないのだ。文子自身、自分のことが好きではない。
ーー透明人間になれたら良いのにな
消えて失くなりたいとは、心の中でも言えない。そんな度胸はない。
文子はしおしおと項垂れる。今朝、長い髪をポニーテールにまとめたことを後悔していた。髪を結わなければ、滝のように流れる髪が顔を隠してくれるのに。
舌打ちをした女子がうんざりとため息をつく。びくびくする文子の頭上に、刺々しい言葉が振り下ろされる。
「あー、ムリ。ムリだわ、エミ、こういう奴、マジでムリ。イラつく」
「えー! それ、面と向かって言っちゃう? エミ、キッツー!」
「オブラートに包めよ、オブラートに包め!」
エミとその仲間達はげらげらと文子を嘲笑う。文子は氷塊を呑み込んだかのように、息苦しく、胸が詰まり、寒さに凍える。
文子は内省的な人間だ。辛く苦しい時、その原因は自分自身にあると考えるし、文子の落ち度は枚挙に暇がない。
ーー千恵ちゃんみたいに誰に対しても明るく朗らかに接することが出来たなら。由美ちゃんみたいに毅然とした態度で危機に臨むことが出来たなら。こんなことにはならないのに。どうしてわたしは、こうなんだろう
「あのさ。そういうの、やめなよ」
凛とした声が、文子に向けられる嘲笑を遮った。文子が顔を上げると、エミ達は文子ではなく、声の主に険しい目を向けていた。
声の主は、窓側から一列目一番前の席、つまり文子の隣の席に座る男子だった。温和な性格で、引っ込み思案の文子にも親切にしてくれる、数少ない男子である。
華々しい美形ではないけれど、笑うとくしゃりと目尻に横皺が寄って、それがなんとも言えず優しげで、なんか良いな、と文子はひそかに思っていた。
文子は瞠目する。「彼」がこんなにも険しい表情をするのは、見たことがない。
エミは細い眉を吊り上げて、「彼」に食ってかかる。
「ハァ? 何? 何言ってんの?」
「青鳥さんに八つ当たりするなって言ってる」
「彼」は声を荒らげたり、悪態をついたりしなかったけれど、落ち着いた物腰の背後にある、緊張感や毅然とした姿勢に、エミは気圧されたようだった。
「彼」の机に凭れかかる男子が、にやにやしながら、「彼」とエミの対立を茶化す。
「そーだ、そーだ。って言うか、お前らさー。青鳥さんが空手部のエースだって忘れてない? ナメた口利いたら、ぶちのめされるぞ」
「早坂」
「彼」が眉を顰めると、「彼」の友人でクラス一番のひょうきん者の早坂は、「彼」の背中をばしばしと叩いた。
「あはは、悪ぃ悪ぃ。ちょっとふざけた。怒んなってぇ」
「彼」にじゃれつく早坂の手を鬱陶しそうに振り払い、「彼」は木枯らしから身を守るように肩をすぼめる文子に視線を向ける。眉を八の字にして、心配そうに文子の顔を覗き込む。
「青鳥さん、顔、真っ青だよ。大丈夫?」
「えっ? あ、あっ……うん、大丈夫」
ちょうどその時、千恵と由美が教室に戻ってきた。
「文子、お待たせー! 移動するよ、急げ急げ!」
「待たせてごめん、遅くなったのは千恵のせいだから」
「えー!? あたしのせいにする!? 違う違う、違うよ、文子! 結菜たちとおしゃべりしてて遅くなっちゃったんだけど、由美も一緒に喋ってたんだからね!?」
二人はかしましく言い合いながら、文子に近寄ってくる。由美がエミと仲間達に「退いてくれる?」と言うと、男子達はすごすごと引き下がった。
由美はにこにことエミ達に愛想を振り撒きながら、文子の手を引いた。文子が慌てて立ち上がると、机の足を蹴飛ばしてしまい、机が倒れる。
「どうした、どうした、青鳥さん! ひょっとして、キレちゃった!?」
と早坂が騒ぎ立て、文子の頭は真っ白になった。
「ご、ごめん……!」
「わー! なんてこった!」
「千恵が急かすからでしょうが。落ち着いて文子、慌てない慌てない」
「青鳥さん、大丈夫!?」
由美が机を立て直し、文子と千恵と「彼」が床に散らばったノートや教科書、筆箱と筆記用具を拾い集める。そうしていると、エミが舌打ちをして
「うわー……なにこれ。白ける」
と吐き捨てる。仲間達も揃って不機嫌な顔をして、文子達を睨み付けて、立ち去った。
由美は顰面で、エミ達の背中を見据え、憤懣やるかたないと言わんばかりに溜め息をついた。
「なにあれ。感じ悪いな」
「どうどう、由美、どうどう」
千恵は由美を宥め、文子の肩を軽く叩く。
「文子はドンマイ」
文子はこくりと頷くと、ぺこりと頭を下げた。
「……なんか、ごめんね。それと、ありがとう」
「気にしない、気にしない!」
「珍しく、千恵の言うとおり」
「でしょ? それと、もうひとつ。そろそろ本気で時間がやばいよ!」
「それもその通り。用意して移動しよう」
由美と千恵が自分の席に戻ると、文子は改めて「彼」に頭を下げた。「彼」は面食らったようだった。
「そんな、俺は何も」
すると、早坂が「彼」の肩に腕を回して、口をもごもごさせて何か言おうとする「彼」に先んじて言った。
「青鳥さーん! もっともっと! もっと褒めてやってよ! こいつ、青鳥さんの為なら、たとえ火の中水の中……」
「早坂っ!」
「彼」は大きな声を出して早坂の言葉を遮った。早坂はちっとも悪びれず、呑気に笑っている。
「あはは、悪ぃ悪ぃ。そんなむきになるなってぇ」
「バカなこと言うなよ。次の体育、男子はグラウンド。急がないと、遅れるぞ」
「ほいほーい」
早坂を追い払う「彼」の横顔をちらちらと盗み見る。不機嫌そうに見えた。心の中で早坂を詰る。
ーー早坂君、なんで余計なこと言うの!? 「彼」は優しいから、わたしを庇ってくれただけ。そうに決まってる。それを、言うに事欠いて「彼」がわたしに気があるみたいに言うなんて! 「彼」、きっと、嫌な気持ちになったよね。もう、やだやだ! 変なこと言わないでよ! 「彼」に嫌われちゃうじゃない!
優しい「彼」のことだから、こんなことで、文子を見捨てたりしないとは思うけれど。そもそも、彼に好意をもって貰えるような、そんな心当たりは皆無だった。
出席番号順で並ぶと隣同士なので、挨拶は交わすし、ちょっとした雑談をすることもある。
けれど、内気な文子は「彼」の話に相槌を打ったり、「彼」の質問に答えたりするので精一杯だ。「彼」はどちらかと言うと控え目な方で、決して闊達な性質ではない。
訥々と話す最中、微笑みを絶やさないのは「彼」の優しさなのだ。早坂が勘ぐるようなことは一切ない。
「青鳥さん」
「彼」に名前を呼ばれて、文子ははっとして我に返った。「彼」はスポーツバックを机に置くと、一呼吸置いてから、文子に向き直る。
「さっきの、気にしないで」
「えっと……?」
ーーさっきのって、さっき、早坂君が言ってたこと? もしかして、勘違いしないでって、釘を刺されてる? そっか……そうだよね。やっぱり、嫌だよね
ずぶずぶと落ち込みそうに文子の心を、「彼」の優しい声が掬い上げる。
「あいつら、写真会のチケットが手に入らないって悔しがってたんだって。自分達が手に入れられなかったチケットを、青鳥さんが手に入れたのが面白くなくて、青鳥さんに八つ当たりをしたんだ。青鳥さんは、何も悪くないよ。だから、気にしないで」
文子は知らず知らずのうちに俯いていた顔を上げる。「彼」と目が合う。「彼」ははにかむように笑った。
「それじゃ、また後でね。……早坂、行くぞ!」
「おー! ちゃんと青鳥さんに自己アピールしたかー?」
「バーカ!」
ふざける早坂の頭を殴るふりをして、教室を出て行く
「彼」の後ろ姿に、文子はぽうっと見惚れていた。
ーーやっぱり、「彼」、素敵だなぁ
文子の初恋は漫画の登場人物だ。絶世の美形で、愛する女性の為ならどんな犠牲も厭わない。自己犠牲でさえ。彼は文子の理想だった。
しかし、それは架空の世界だからこそ、出来る恋だった。
文子は、現実の世界で恋をしたことがない。恋をするなら、初恋はきっと、「彼」のようなひとに捧げることになる。そんな予感がしていた。




