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お父さんはかみさまを描く

 青鳥あおとり 文子ふみこの父は、自然美をこよなく愛する画家だった。父の描く対象(オブジェ)は自然だけ。風景画ばかり描いて、肖像画や静物画は頑として描こうとしなかった。


 父はひとり娘である文子を溺愛していたけれど、その文子が似顔絵をせがんだときも、きっぱりと断った。


「古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『善いものはすべて美しく、美しいもので均斉のとれていないものはない』と言ったそうだ。けだし至言だね。容姿のみならず、徳の美、精神の美を認めている。古代ギリシャの悲劇詩人アイスキュロスの『デーバイ攻めの七将』には『汚れも咎もなく死ぬことこそ美しい』という言葉もある。だけど、容姿であれ精神であれ、人の美醜は時代とともに移ろうものだ。お父さんは、不変の美こそ、本当の美しさだと思う。そういうものだけ、描いていたいんだよ。真実の美は、いつでもどこでも、人を虜にする。そんなこと、人にはなしえない。全く神業だ。だから、人は描かないのさ」


 自然美に偏執する父は、美しい自然を求め、日本中を旅して回っていた。旅の途中、道東にある山村の大自然に魅せられた父は、山村から戻るなりアトリエに籠った。


 妻子の呼び掛けに応えず、一心不乱にキャンバスに筆をはしらせる父の様子は鬼気迫るものがあり、いつも穏やかな父とはまるで別人のようだった。


 三日三晩、父は寝る間も惜しんで描画に没頭した。絵画が完成すると、ようやくアトリエから出てきて、晴れ晴れとした笑顔を見せた。


 父は文子に乞われるまま、文子を抱き上げる。仲睦まじい父子の様子を見守りながら、母は胸を撫で下ろした。いっとき父を襲った描画への情熱は、憑き物が落ちたように過ぎ去ったのだと思われた。


 一家団欒を楽しんだ翌朝。父が妻子を残し、忽然と姿を消すまでは。


 母は文子の手を引いて、彼方此方、父を探し回ったけれど、父は見つからない。誰も父の行方を知らない。警察に捜索願を出しても、大人の行方不明者で、特に事件性がない場合には「一般家出人」に分類され、警察が特別に捜索に乗り出してくれる、ということはないらしい。


 父が失踪した一月後。母は父を探し続けていた。気丈に振る舞う母の横顔に憔悴が這いのぼっていることは、幼い文子の目にも明らかだった。


 ――このままじゃ、お母さんがたおれちゃう。ふみがお父さんを見つけなきゃ!


 奮起した文子は、両親の言い付けを破ることにした。誰も彼も眠りにつく真夜中。こっそり寝室を抜け出して、父のアトリエに忍び込んだ。


 アトリエは、父にとって、特別な場所だった。文子は出入りすることを禁じられていた。母でさえ、滅多に立ち入らない。父が嫌がるからだと言っていた。


 アトリエは父の秘密基地。秘密そのものと言っても良い。アトリエに、父の行方を探す手掛かりがあるに違いない。


 アトリエに足を踏み入れた文子は、目をまるくした。真夜中のアトリエには、光が満ち溢れていた。


 照明は消灯してある。窓の外は真っ暗で、天窓からさしこむ月の光は青白い。父の作品たちは皆、埃っぽい暗がりで息を潜めている。


 それなのに、文子は生まれて初めて、光にさらされたかのように眩んだ。


 光の源は、画架(イーゼル)に飾られた絵画だった。


 もっとよく見てみたい。文子は、画架の前に置かれた椅子によじのぼる。椅子の背凭れには、色とりどりの絵具の染みがついた上っ張りが無造作に掛けられている。ふわりと懐かしい匂いがして、鼻の奥がツンとした。


 文子は頭をふり、息を詰め、目の前にあるカンヴァスに目を凝らす。


 逆さまの空のように咲き乱れる紺碧のヤグルマギクの花が、こんもりと生い茂る瑞々しい翡翠色の葉の合間から顔を覗かせている。


 匂いたつような花々の明るさ、緑の瑞々しさを、乳白色の木洩れ日が、天蓋から垂れ下がるオーガンジーのように、やわらかく包み込む。


 カンヴァスの中に閉じ込められた、美しい風景。その中心に佇む、美しいこどもに、文子は心を奪われた。


 クラスで一番とか、学校で一番とか。アイドルみたいとか、モデルみたいとか。男らしいとか、女らしいとか。そんな線引きが陳腐に思えてしまう程、美しいこどもだった。


 そのこどもは、頭のてっぺんから足の爪先まで、正しく整っている。完全無欠の白晢は、人間味をまるで感じさせない。父が描いても、不思議ではないと思わせる、人間離れした美しさ。


 文子は絵画のなかのこどもを見つめる。文子を見つめ返す綺麗な瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。美しい青も緑も、目に入らない。こどもを取り巻く、すべての美しいものが、そのこどもに傅くようだ。


 ――お父さんは、ずっと、この子を描きたかったんだ


 背筋が凍るほど、美しいこどもと、そのこどもが従える美しい風景。父はこの対象(オブジェ)に理想を、真実の美を見つけたのだろう。


 ーーこの子、きっと、かみさまなんだ。お父さん、かみさまについていっちゃったんだ。どうしよう。お父さん、もう、帰ってこないかも


 いつの間にか、母が文子の傍らに跪いていた。母は泣きじゃくる文子を抱き寄せた。


「大丈夫だよ、文子。大丈夫だよ」


 そう囁き、母は文子を抱きしめる。大丈夫と言い聞かせる。文子にではなくて、母自身に言い聞かせるようだった。母にもわかったのだろう。父は、人の手の届かない存在に、手を伸ばしてしまったのだと。


 それから、一週間後、五月三十一日。母は文子を連れて道東にある山村を訪れた。父が失踪前、最後に訪れた土地だった。


 母と文子は、父を求めて、村中を尋ね回った。父が七日間、滞在した旅館に宿泊することにした。


 母は女将に事情を説明して、協力を求めた。女将は母と文子の境遇に同情して、親身になって母娘の世話をしてくれた。


 しかし、父の行方はわからない。手がかりも掴めない。


 連日連夜、母と文子は父を探した。滞在五日目、文子は寝込んでしまった。二日間、燃えるような高熱に苦しめられた。


 目を醒ますと、文子は布団にくるまっていた。枕もとには旅館の離れに住む老婆が香箱をつくる猫のように、座っていた。丸い背中を斜陽が橙色に染めている。


 母は文子を老婆に預けて出掛けたようだ。


 文子が目を醒ましたことに気が付くと、老婆は枯れ枝のような指で、文子の額を撫でた。


「ん、汗ェかいて、熱、下がったようだね。ゆっくり休めたかい? 騒がしくて、あずましくなかったんでないかい? 今日は孫の誕生日でねぇ。あの子、おだっておだって、しっといんだわ。大丈夫かい? そうかい。そしたら、いがったよぉ。お水、飲むかい?」


 老婆の言葉は訛りがきつくて、文子には聞き取れないところもあった。それでも、文子がこっくり肯くと、老婆は「したっけ、しゃっこいお水、持って来たげるね」と言って腰を上げた。襖を少し開けて、隙間から顔を出す。それから、襖を開け放った。


「襖、開けとっすけね。お母さん、明日には戻るとさ。よい子で待っといで、お外さ出ちゃなんねぇよ。逢魔時にゃ、隠し神様の目が開くすけ」


 擦り足でゆっくりと歩く老婆の足音が徐々に遠ざかる。文子はそろそろと上体を起こした。常夜灯のぼんやりとしたオレンジ色に照らされた室内は、ひっそりと静まり返っている。なんとなく、開け放たれた襖の向こうに目を向けた。


 文子は息をのむ。胸の内で、心臓が踊りだす。


 襖の縁をつかむ、木蓮の花のような手。その向こうから、綺麗な顔をのぞかせているのは、男の子にも女の子にも見える、文子と同じ年頃のこどもである。


 文子には、ひと目でわかった。この子は、父が描いたこどもだ。神様みたいに美しい、あのこどもなのだ。

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