第9話「執事ポイントってなんだよ」
「また軸がぶれております。無駄な力は抜いて、頭のてっぺんから糸で吊られているように背筋を伸ばすのです」
狭山は歯を食いしばって鏡に映る自分を見つめながら、再び歩き始めた。
壁一面が巨大な鏡になっている、ヨガ教室やダンスレッスンを行うスタジオのような部屋を訪れた狭山は、義徳の指導の受けながら歩き方の練習を行っていた。
「狭山さんは若干猫背気味です。頭が前に出ております。第一印象で「情けない」と思われないよう、矯正いたします」
その一言をきっかけに義徳の指導が始まった。
初めはただ歩いているだけで金が貰えるなんてラッキーだと思っていた。
今は違う。狭山は過去の甘い考えだった自分を殴りたくなった。
普通に生きていれば親からくらいしか指導されない、歩くという動作。それを事細かに指摘されながら修正していく。異常なストレスを狭山は感じていた。
「また頭が前に出ています。あと30分で綺麗な歩き方を身につけなければ今日はお帰りいただきます」
「え!?」
義徳の声色は変わっていない。しかしどこか棘があるように思えた。指導者としての熱意が入っているのかもしれない。
嫌気がさしてきた。気分も悪い。もう辞めてさっさと帰ってしまおうか。
弱気になる狭山の脳裏に、神白の後ろ姿が掠めた。
顔を上げて背筋を伸ばす。何を弱気になっているんだ、と自分を鼓舞する。
このまま適当にこなしてクビになったら「歩き方すらまともにできない男でした」と、義徳は神白に報告するだろう。
そしたら相手はどんな反応をする。侮蔑かそれとも嘲笑か。それとも悲しみだろうか。
どんな反応にしろ、自分に合格の連絡を入れてくれた神白の顔に泥を塗るような行為は避けたかった。
狭山は真剣な表情で、美しい歩き方というのを学び続けた。
義徳はそんな狭山を見て、短く、それでいて小さく、感嘆の声を上げた。
☆☆☆
次に行う作業は庭の掃除だった。
ジャケットを脱ぎ、軍手を装備し箒を持った狭山は、義徳と共に門近くまで移動する。
「お疲れさまでした、狭山さん。続いては掃除です」
「はい……」
疲れ切った声を出す狭山のことを無視して、義則は喋り出す。
「旦那様や奥様が帰ってくるとき、お車でこの庭を通ることもあります。他には来客用の車が通ることも。奥様は通り道に落ち葉や小石、そして石置上に汚れがあることを大変嫌うお方でございます。玄関へと続く石畳を中心に掃除を行ってください」
右手に持った箒で地面を指しながら言った。
「は、はい。あ、かしこまりました!」
「いい返事ですね。少々違和感を覚えるかもしれませんが「かしこまりました」は執事やメイドの基本的な挨拶です。体に染みつけるためにも頑張りましょう」
「かしこまりました」
「今回は私がついておりますが、次回からは一人です。効率のよい動き方を学んでください」
「……あの、質問をしても」
「受けましょう」
「この広さを、今から?」
義徳が肩をすくめた。
「当然です。ちなみに、今から3時間以内に終わらなければクビです」
息が詰まった。いきなりクビの危機というわけだ。
「いきなり俺……じゃなかった。私はお役御免になるかも、ってことですね」
乾いた笑い声を出すと、相手は頭を振った。
「違いますよ。クビになるのは狭山さんではありません」
「え」
「私が、クビになるかもしれないのです。さぁ、お掃除しますよ!!」
言い終わるな否や、老齢とは思えない俊敏な動きで義徳は箒を動かした。
「え、えぇ!? いきなりですか!?」
「さぁ落ち葉を集めましょう! 今日は風もありません。稀に雑草を抜くと執事ポイントプレゼントです!」
「なんすか執事ポイントって!」
なぜか義徳は楽しそうだった。ツッコミながらも初めての執事としての仕事が幕を開けた。
これが執事のやることなのだろうか。神白に仕え、優雅に紅茶やらコーヒーやらをカップに注ぐ自分を想像していた狭山だったが、箒を動かし体を動かすにつれて、その妄想は霧散していった。
――それから2時間が経過した。大変だったのは、石畳に付着した泥やタイヤ痕の拭き取り作業だった。あとは小石と雑草の除去作業。庭にはペットボトルや生ゴミなど放置されていないため、特に大きなゴミはなかったが、作業自体が細かかった。
「あ~、疲れた」
インドアな狭山にとって日中の作業は地獄だった。慣れない格好をしながら細かい指摘をされ続けた清掃活動は、歩き方同様、心身を消耗させた。暑さがないだけマシかと己を慰める。
「狭山さん。仕事が終わっても疲れたところを見せてはなりませんよ」
「……かしこまりました」
そう言いながらも、狭山は上体を前のめりにしたまま、老人のように腰を叩いてしまう。
「庭掃除はこれで終わりです。続いての仕事。本日最後となる仕事は私ではなく、ある方と一緒に行動していただきます」
「ある方?」
いったい誰だろうと思案していた時だった。
「ワン!!」
後方から犬の泣き声が聞こえた。中々野太い声をしていたそれは、徐々に近づいてきた。
恐る恐る後ろを振り向くと、飛びかかろうと跳躍する犬の姿が見えた。
ジャーマン・シェパードだ。警察犬などでも捜査員の一員として活躍している、あの聡明な見た目をした犬種だった。
「ワン!!」
見た目とは裏腹に、シェパードは嬉しそうな声を上げて狭山の腹に突撃した。
「ぐふっ!!?」
突然のヘッドバットに耐え切れず、狭山はシェパードに押し倒された。
「うわぁ、やめて! ビーフジャーキーとか持ってないから俺!! じゃなかった私!」
顔を舐められながらも抵抗している狭山を尻目に、義徳は口を開く。
「続いては”彼女”……ルインのお散歩に行ってもらいます。やり方に関しては、私はお教えいたしません」
「じゃ、じゃあ誰が」
「わたし」
声が聞こえたと同時に、シェパードを押しのける手を止めた。狭山の視線は横に向けられる。
「ルインの散歩。一緒に行こ、狭山くん」
しゃがんで頬杖をつく神白に、一瞬言葉を失った。
「か……かしこまりました。えっと……お嬢様?」
「うん」
困惑しながらそう言うと、神白は短く返事をし、
「正しい呼び方ですね、狭山さん」
義徳は口元に小さな笑みを蓄えて、褒め言葉を漏らした。
ルインが頬を撫でたことで、ようやく狭山は神白から視線を切った。
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