第8話「執事アルバイト開始」
狭山はスマートフォンを見つめる。未だに現実味を帯びない。
鹿島からは『貴重な体験だから頑張ってみたら』というメッセージだけが来ている。
ため息をつく。一番の問題はバイト先が神白の家だというところなのに。もちろんそれは鹿島に告げていない。報告できるわけがない。
――俺みたいな影の薄いクラスメイトが、クラスどころか学校で一番目立つ女子、神白の執事として活動するんだ。
こんなこと、親友である鹿島にも、堂々と言えるわけがない。
「ありえねぇ」
電車のつり革を掴み、小さく呟いた。
執事としてどんな業務が待っているか、という不安も合わさって、狭山の精神は削られていた。頭の中には「帰りて~」という言葉が渦巻いている。
それでもあの豪邸へ足を運ぼうとしているのは、初めてのアルバイトだから頑張ってみようという気持ちが3割。残りはすべて、神白と話して仲良くなれるのでは、という期待だ。
最初は「何がクラスのアイドルだ」と、神白のことを遠巻きから笑っていた。男子からも女子からもちゃほやされている彼女を恨めしく思いながら、自分は群がる連中とは違うと考えていた。
いわゆる逆張りだ。
ただ、もしあんな美女と仲良くなれたら、学校中の人間が俺を羨ましがるかな、などと妄想していたことも少なからずある。
邪な気持ちだ。けれど構わないだろう。妄想の中でくらい、調子に乗ったって。
誰かに対して言い訳すると、狭山はつり革を再び力強く握りしめた。
☆☆☆
朱雀院家の門が見えた頃には10時45分になっていた。10分以上前にたどり着くなら文句はないだろう。
遅刻しているわけでもないのに弁明を述べていると白い塀が見えてきた。
そして、門の前に、風に揺られる甘栗色を見た。
「……あ。狭山くん」
神白がいた。白いキャンバスに、突然明るい色が入ったようだ。
目を開いて立ち止まる狭山を見ると、神白は目を伏せて前髪を指で梳く。一挙一動が絵になる美しさだった。
「ど、どうもです」
近づいて頭を下げる。狭山は若千神白よりも身長が高いのだが、目線の高さはほぼ一緒だ。そのため正面から神白の美貌を捉える勇気はなく、視線は地面に向けられたままだった。
神白は首を傾げた。
「敬語じゃなくていいよ」
「え、いやぁ、だって」
「私、クラスメイトだよ」
いやぁ、クラスメイトだけど立場というかカーストとかが違うわけでして。
正直に言えるわけもなく、かといってうまい言い訳が思い浮かぶわけでもなく。
「ご、ごめん」
謝罪の言葉を口にしてしまった。
「なんで謝るの」
「な、なんとなく」
神白は黙ったまま、冷たい瞳で見つめてくる。狭山は視線を切ろうかどうか悩むしかなかった。
「狭山くん。面白い」
「……は?」
神白は真顔でそう言った。
思いもよらない言葉を聞くと同時に門が開いた。狭山は肩を上げて驚いたが、神白は無表情で後ろを見た。
「いこ。三和さんが待ってる」
そう言うと狭山に背を向け歩き始めた。
まったくと言っていいほど理解できない相手だった。謎に包まれた神白の性格を目の当たりにし、狭山の家に帰りたい欲求は大きくなりつつあった。仲良くなど、夢のまた夢だ。離れていく神白の背中には、手が届きそうもなかった。
ため息をついて背中についていく。石畳を通って庭を抜け玄関の扉を開けると、義徳が頭を下げて出迎えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。そしてようこそおいでくださいました、狭山様」
「ただいま」
「どうもです」
義徳は顔を上げると微笑みを浮かべる。
「狭山様と共に働けること、嬉しく思います。本日から、よろしくお願い致します」
「いえいえ! こちらこそ!」
狭山は義徳と話せることに喜びを感じていた。落ち着いた雰囲気の紳士を、狭山はカッコいいと思っていた。
「やはり若い方は、元気があってよろしいですね」
義徳はそう言って、狭山の隣にいる神白に目を向ける。
拗ねていた。微かに類を膨らませ、嫉妬に近い、刺すような視線を義徳に向けている。恐らく自分と話す時と全く違う反応を狭山が示したのだろう。
これ以上からかうと面倒になると思い、義徳は喉を鳴らす。
「それでは狭山様。さっそく執事アルバイトの業務に取り掛かっていただこうと思います。ですが、今日は初日。仕事を覚えることを念頭に置いて動いていただきます」
「は、はい」
「まず諸注意を。この仕事は通常のアルバイトに比べて高額であります。"気軽に働かないよう"、常に気を引き締めてくださいませ」
「了解です」
「了解ではなく、かしこまりました、にしてくださいませ、狭山"さん"」
空気が張り詰めたような気がした。狭山はぐっと息を呑んだ。
「か、しこまりました」
「よろしい。仕事中は執事長である私を頼ってください。それでは」
義徳は踵を返した。
「狭山さんだけついてきてください。まずは着替えなければ」
そう言って歩き始める。狭山はついていこうと一歩踏み出し、視線を神白に向ける。
「そ、それじゃあ、今日からよろしく」
「うん」
頷いた神白は小さくガッツポーズをした。
「がんばれ、狭山くん」
「う、おう」
短く返事をして視線を切った。突然の可愛らしい動きと応援に、狭山の顔が赤に染まる。
「そ、それじゃあ、着替えてくる」
赤くなった顔を見られたくなかったため、狭山は駆け足でその場を離れた。
これから大変な業務が始まるかもしれないという不安が、この時だけは消えていた。
☆☆☆
鏡に映った自分を見て、狭山は類を引きつらせた。
今まで着たこともないダークグレーのスーツに身を包んだ自分は、頑張って大人ぶっている、背伸びした子供にしか見えなかった。
履きなれない革靴はしっくりこない。ネクタイが窮屈で、顔を不快感で歪めてしまう。唸るような声を出していると義徳が隣に立った。
「よくお似合いですよ、狭山さん」
「そ、そうですかね」
「はい」
姿見に義徳がわずかに映る。
「背筋を伸ばしてください。目を開いて、唇を軽く締める」
「え?」
「言われた通りに」
狭山は言われた通りの挙動を行う。
「一人称は「私」で統一してください。私。復唱して」
「わ、私……」
「よろしい」
後ろ手に組んだ義徳を見て、狭山は同じポーズをとる。
「狭山さんはあくまでアルバイトの執事。誰かの従者になるというわけではありません。主に行うのは掃除などの雑用です」
「なるほど……」
「ですが予期せぬ出来事、というのは起こるものです。突然この家に住む方のお手伝いをすることも充分にありえます。そういった場合でも落ち着いた表情で、「かしこまりました」の一言を口から発す余裕を持ってください」
「……か、かしこまりました」
「素晴らしい。その不動心を忘れず。ただ表情が硬いです。肩の力を抜きましょう。深呼吸をするのです。大胆に、迅速に」
言われた通り大きく深呼吸した。口から息を吐き出すと、肩の重荷が下りたようだ。
「そしてもう一つ。褒め言葉は素直に受け取ることです。文句や軽口を叩いてはなりません」
「かしこまりました」
「怒りを感じることがあっても、それを霧散させることができれば、及第点ですね」
ということは、怒りを感じることが多いということだ。漫画や映画でありがちだが、やはり金持ち連中というのは、一癖も二癖もある者たちばかりなのだろうか。
体が緊張で満たされていくのを狭山は感じた。
「文句を言ってもよいのは、私のような執事長。それか主人と仲良しな使用人だけですね」
「……言っていいんですか?」
「たまには飼い主の手を噛むことも必要なのです。なので狭山さん。失敗を恐れないで挑んでください。何かあっても私が全力でフォローいたします。己を磨き、仕事を覚え、主人に仕える。今はそれだけを考えてください」
義徳は笑みを浮かべた。執事長の言葉を聞いて、勇気と自信が体の底から沸き起こってくるのを狭山は感じた。単純かもしれないが、その言葉は心強かった。
「かしこまりました」
頷きながら応えると、義徳は満足そうに頷いた。
「では最初の仕事です。狭山さんにはあることを覚えていただきます」
「あること?」
首を傾げると、義徳の口角が上がった。
「"歩き方"でございます」
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次回の投稿は11/25、12:30予定です!
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