第6話「氷柱姫、困惑ワクワクする」
最初それを見た時、神白は自分の目を疑った。
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自室で課題を終えた神白は大きく伸びをする。凝り固まった肩と背中の筋肉の緊張がほぐれて気持ちがいい。あとは明日の予習をもう一度行うだけとなっていた。
勉強は、神白にとって大事な趣味の一つだった。彼女にとって参考書を読むという行動は、一般小説を読むのに等しい行為だ。神白は己を楽しませてくれる参考書の表紙を、壊れ物でも扱うかの如く、優しく撫でた。
その時、腹から小さな音が鳴った。
「お腹すいた」
小腹が空いたのを自覚すると神白は部屋を出て、キッチンへ向かおうと長い廊下を歩いていた。その時だった。
「本日は当家の執事アルバイトに――」
階下から三和執事長の声が聞こえた。どうやらまた執事の面接に来た者がいるらしい。
どうせ雇わないくせに、と神白は思ってしまう。三和執事長のお眼鏡に叶う相手などそう易々とはいない。
それに、自分が気に食わない可能性が高いのだ。そのせいか、この屋敷は大きさに比べてメイドや執事の数が少ない。原因は自分にあることを自覚していたが後悔をしたことはない。
毎年行っているこのアルバイト募集なんて、時間と労力の無駄だ。執事経験がない素人が来ても困る。あっても、どうせすぐに辞める。
神白は不服そうな表情を浮かべながら階段に近づいていく。
「よ、よろしくお願いします!!」
足を、止めた。
聞き覚えのある声だった。
「え、うそ」
幻聴だ。さすがにそれはない。
神白は興奮しそうになる己をなんとか押しとどめ再び歩を進める。階段近くの手摺に恐る恐る手をかけ階下を見る。
そこには、三和執事長の前に立つ、狭山春樹の姿があった。
なんで。どうして。
疑問の声を出しそうになった神白は身を翻し、駆け足で自室へ戻った。自宅の廊下を走ったことなど、いつ以来のことか。
バタン、と勢いよく扉を閉め、扉に耳を当てる。
しばらくすると、2階に上ってきた二人の話し声が微かに聞こえてくる。
神白は頬を緩めた。
「……幸せ」
いや、違う。うっとりしている場合ではないだろう。
神白は目を開いて頭を振る。なんとか冷静になろうと息を吐き出しいつも通りの無表情になろうとする。
しかし、無理だった。
口元がにやけてしまう。神白は自分の顔を両手で挟んだ。
狭山が、アルバイトとしてだが自分の屋敷に来てくれるかもしれない。それも執事になってだ。
もしかしたら、"専属"になってくれる可能性も大きい。
それらの空想・妄想を作り上げた神白の頭は、困惑と期待感のせいで煙が噴き出しそうだった。
それから数十分、近くの部屋の扉が開いた。狭山と三和執事長が別れの挨拶をしているのを耳にする。
神白は静かに扉を開けると、忍び足で廊下を歩く。そのままエントランスに到着すると、家を出る狭山の背中が見えた。
もっといればいいのに。ぐっと言葉をこらえて、神白は階段を下りた。
狭山が出ていくまで頭を下げていた三和執事長が頭を上げ、ふぅと息をつくのが見える。
「執事長」
呼びかけると、老執事は素早く振り向き、完璧な一礼を神白に向けた。
「お嬢様。どうされましたか」
「お客様の対応?」
「執事アルバイトの候補者でございます。さきほどまで面接を行っておりました」
「そう」
三和執事長は頭を上げると、瞼を閉じた。
「高校2年生。お嬢様と同年齢でございます。異性とはいえ、気が合うのではないかと」
神白は冷ややかな視線を向けた。三和執事長はすました顔をしている。
「これは失礼を」
「いいよ、別に。ちなみに彼、私と同じクラスの男子」
「なんと」
驚きの色を隠せない相手の顔を見て、神白は顎に手を当てる。
「どうだった?」
「結論から言わせていただきますと、彼以上に優秀な方はごまんといる、という評価に落ち着きます」
「彼自身に可能性は?」
「可能性という蕾を開花させるよりも、すでに開花している者を雇う方がよろしいかと存じ上げます」
頬を膨らます主に対し、三和執事長は後ろ手に手を組んだ。
「不服そうですね」
「きっと、執事長も気に入ると思うから、雇ってみたら?」
三和執事長の頬が緩む。
「お嬢様はわかりやすいですね。狭山様に来てもらいたいのでしょう」
「……三和さん嫌い」
ほんのり顔を赤くしながらも睨みつけてくる主を見てクスリと微笑む。
「無礼でしたね、お嬢様。お詫びにこちらを」
三和執事長は二つに折りたたんだ白い紙を手渡した。神白が首を傾げる。
「狭山様には、合否連絡を今日か明日の昼までにご連絡すると話しております」
「……それが?」
「私の意見としては"五分五分"でございまして。恥ずかしながら判断がつきません。ここはやはり、お嬢様の判断が必要ではないかと、私は思うわけです。というわけで、こちらの紙をお渡し致します。狭山様の電話番号が書かれてあります。
「それって……」
「どうか慎重に精査したうえで連絡をしていただきますよう、お願いいたします」
「わかった」
食い気味に神白は答えると、踵を返して自室へと向かった。
「めずらしいこともあるものですね」
あんなに嬉しそうなお嬢様の顔を見たのはいつぶりだろうか。
三和執事長は主の背に向けて一礼すると、次の面接準備に取り掛かった。
狭山用の執事服を準備しなければと、思いながら。
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