第19話 「臭い」
神白の家である朱雀院家には、数多くの使用人が存在している。執事以外にも、メイドやコックなどを雇っている。義徳は執事長であり、使用人たちの統括でもある。
狭山はまだ、義徳の統括らしい動きを見てはいなかった。しかしエントランスまでやってくると義徳が背筋を伸ばし、エントランスに集まりつつある使用人たちを見やる。
「左右に並んでください。動きながらで結構です、耳をこちらへ。奥様がこの曜日に帰ってこられるということは、中々に不機嫌な様子。メイドたちは執事たちの後ろへ」
エントランス中に数多の「承知いたしました」の声が木霊した。狭山はその声に圧倒され、視線を右往左往と動かすことしかできなかった。
列を作る使用人たちを見て、あらためて朱雀院家の広さと財力を認識する。挨拶すら交わしたことのないメイドや他の執事たちは、皆神妙な面持ちだ。
十数人いる使用人と、狭山は面識がない。狭山はあくまで”短期アルバイト”であるため、義徳以外の者とは関りを持たない仕事を任されている。
にもかかわらず、この場に連れて来られるということは、よほど緊急なのだろう。
自分以外の姿勢を正した執事を見て、狭山は自分という存在が場違いであることを再認識しつつあった。
「狭山執事」
狭山が顔を上げる。義則は後ろに手を組み、肩越しに視線を向けていた。
「狭山執事はあくまでアルバイトの身です。一歩下がって頭を下げておくように」
「は、はい!」
返事をすると義徳は視線を切った。
なぜ下がる必要があるのか狭山は疑問に思ったが、聞くのは後にしようと決めた。空気が少し、張り詰めていたからだ。
狭山は横並びになっている列の一番後ろ、玄関からもっとも離れた位置に立つ。
いったい神白の母親とはどのような人物なのだろうか。狭山は少しだけ首を前に倒し、人影に隠れながら玄関を見つめ続ける。
扉が開いた。
神白とそっくりな顔をした、流れるような黒髪を靡かせる美女が、エントランスに足を踏み入れた。
「お帰りなさいませ、純様」
扉の前に立っていた義徳が、深々とお辞儀をする。呼応するように、使用人たちが頭を下げた。布が擦れる音にまぎれるように、狭山も頭を下げる。
「お荷物をお持ちいたします」
「必要ないわ」
義徳が顔を上げると、純と呼ばれた女性はぴしゃりと言い放った。義徳は一礼する。
狭山は少しだけ頭を上げ、もう一度純を見つめる。よく見ると目元や口周りが微妙に違う。つり目のせいで非常に高圧的な雰囲気を醸し出しており、色素が薄い小さな口元は不機嫌さを隠しきれていない。何とも”強気”な女性だった。
確かに違いはあるが、神白が年を取ったら、こんな風になるのではないかと思ってしまう。
グレーのパンツスーツという出で立ちの純は前を見つめて歩き始めた。床を叩くハイヒールの音とキャリーバッグを引く音が静かなエントランスに響き渡る。
一定のリズムを刻みながら、頭を下げる使用人の列の前を通り過ぎていく。狭山は慌てて地面を見つめた。
純が狭山の前を通り過ぎる。
その瞬間、足音が止まった。
――え、なんで?
狭山の背中に一筋の汗が流れる。頭を上げなくてもわかる。背中に圧を感じる。純が睨み下ろしていることが、ありありと伝わってきた。
「純様、いかがなされましたか?」
義徳が声をかけた。
純は義徳の方を見ず、ポケットから臙脂色のハンカチを取り出し、口元にあてる。
「臭い」
たった一言。その一言は、狭山に向けられていた。
狭山は息を呑んだ。この冷ややかな声に覚えがある。しかし質が違う。
神白の言葉を「氷柱」とするならば、純の言葉は「巨大な氷塊」である。
「酷い臭いね、義徳」
「ふむ? 臭い?」
義徳はすんと鼻を鳴らして、得心したように笑みを浮かべた。
「コーヒーの香りでしょうか? 失礼。私の服から滲み出ているようでございます」
「違うわ。コーヒーじゃない。その程度じゃあ、消せない臭いよ」
純の眉間に皺が寄る。
「……庶民の臭い。汚らわしい」
狭山は目を見開いた。紛れもなく、自分に言われた。それだけはハッキリとわかった。
「あとで掃除しておきなさい。義徳」
「はい」
「私が風呂から出る前に、よ。わかった?」
「はい。かしこまりました」
「あなたはここにいて、”それ”の面倒見ておきなさい。……はぁ、気持ち悪い。最低な気分っていうのはこのことね」
吐き捨てるように言うと、純は視線を切った。
足音が遠ざかっていく。他の使用人が顔を上げ、数人は即座に動き出し、極少数が狭山に同情的な視線を投げてその場を離れていった。
狭山は、使用人がいなくなってからも、顔を上げることができなかった。
「……狭山執事。顔を上げてください」
ゆっくりと顔を上げる。義徳が申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「主の非礼、お許しください」
「……」
深々と頭を下げる義徳を見て、狭山は頭を振った。
「いえ、気にして、ないので」
苦笑いを浮かべながら答えると、狭山は奥歯を噛み締め、拳を握った。
★★★
庶民。庶民の臭い。金持ちにとって庶民というには”臭い存在”らしい。
さきほどの言葉が脳内に渦巻いていた。狭山は更衣室に戻るとため息をついて椅子に座った。
義徳から今日は仕事を切り上げていい、と言われた。正直ありがたかった。こんな精神状態では仕事に身が入らない。
立ち上がりジャケットを脱ぎ、ハンガーを取ったところで動作を止める。鼻を腋の方に近づけて体臭を嗅いでみる。特に変な臭いはしない。
庶民の、臭い。
狭山はジャケットを力強く握りしめ、地面を睨みつけると、それを持つ腕を上げて――
――力なく下ろした。
服を叩きつけようと思ったが、そんなことをしても何の意味もない。
「はぁ」
酷く疲れた。狭山は無心で着替え終わると静かに廊下に出る。純に出会わないか少し不安だったが、人影はない。
「庶民かぁ……」
おそらくこれが上流階級の視点からおける、狭山の評価なのだろう。あれだけの使用人がいる中で、一発で狭山をアルバイト、それも庶民だと見抜いた。嗅覚は確かなものらしい。
関心はする。だが、憤りを感じないわけではない。
ふと、神白の顔が脳裏に浮かび上がる。
神白も、同じ嗅覚を持っているのだろうか。
神白も、同じように、庶民を馬鹿にしているのだろうか。
綺麗な顔と、こちらを呼ぶ声を思い返しては消してゆく。
「くそ」
思考を遮断するように舌打ちすると狭山は玄関へ向かう。
「狭山くん」
その背中に声がかかった。素早く振り向くと神白が立っていた。手にはスマートフォンを持っている。
「アルバイト、終わり?」
「え、ああ……うん」
「そう。なら、連絡先、交換しよ?」
「え?」
「言ってたでしょ? これから連絡取りやすいようにって」
「あ、ああ」
狭山はポケットに手を伸ばし、やめた。
神白が首を傾げる。
「狭山くん?」
「あのさ、神白さんはさ」
「うん」
「しょ……庶民の臭いとか、わかる、の?」
「……え?」
「庶民がどうとか気にする感じ?」
狭山は床に視線を向けたまま言葉を続ける。
「さっき神白さんのお母さんに会ってさ、臭いがどうこうって。だから、神白さんも同じなら俺なんかがここにいるのはやっぱりダメなんじゃ、ていうか、連絡先の交換なんてそんなわざわざ――」
言い終える前に、神白が狭山の手を掴んだ。
「え?」
顔を上げる。
そこには、少しだけ怒っているような神白の顔があった。
「こっち、きて」
「えぇ!?」
グイと引っ張られる。
「ちょ、ちょっと神白さん!? どこ行くの!?」
質問の答えは返ってこない。ずんずんとした歩みで、どこかに向かっていく。
細い腕だった。必死になれば振りほどけるだろう。だがそれはしたくなかった。
狭山は困惑しながらも引きずられるように、神白についていった。
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