第18話「大事なのは思いと笑顔」
狭山にはコーヒーを淹れた経験など片手で数える程度しかない。というより、昨日と一昨日で、基本的なペーパードリップコーヒーの練習をした程度だ。
だが自信はあった。自分で言うのもなんだが、美味しかった。本当は味見役に家族を使いたかったが、それは、難しいことだった。
動画知識とはいえ今回はやったことがある。ネクタイの汚名を返上する絶好の機会だった。
表情に自信が溢れる狭山を、義徳は一瞬見つめる。少しだけ驚きの色が混じっていた瞳を伏せ、義徳が「ふむ」と顎に手を当てる。
「では、やっていただく前に、簡単な質問を」
「あ、はい」
ここで「しまった」と狭山は思った。器具の場所を予め把握しておけばよかった。場所がわからないということで有耶無耶にされるかもしれない。
だが、義徳の質問は予想外の物だった。
「誰のためにコーヒーを淹れるのですか?」
「へ?」
「喉が渇いたから自分で飲む、というわけではないでしょう? 誰かに飲んでもらいたいはずです。では、誰に?」
「……えっと」
言い淀む。義徳の真っ直ぐな視線が、狭山を逃がさない。
「……義徳、さんに」
「ほう? 私に? それは嬉しいですね」
おずおずと発言すると義徳は楽し気に笑い声をあげた。
狭山はその笑い声に感情が含まれていないことを悟った。相手は、呆れているのだ。嬉しいというのは建前だろう。
「では私の好みを知っていると。言っておきますが、私はコーヒーにこだわりがあります。豆もお気に入りの物しか受け付けませんし、ドリップにも好みがあります。抽出時間が適当な物では満足できません。狭山さんは、そんな頑固で面倒くさいお爺さんの私が気に入る、最高のコーヒーを淹れてくれるのですか?」
胸に手を当てて小首を傾げる義徳を見て、狭山は言葉を失った。何も言えないのは当然だった。相手の好みなど知るはずがないからだ。ただ自分がどれだけの腕前かを査定して欲しという、身勝手極まりない思いしかないのだから。
狭山は項垂れてしまう。情けないと思うが、上手い返し言葉など思いつかない。思案しているふりをして、何とかこの場をやり過ごそうとする、子供の態度しか取れなかった。
そんな相手を見て、義徳の鼻から長めの息が吐き出される。
「狭山さん、顔を上げてください」
「……はい」
「意地が悪いですね、私も」
顔を上げた狭山にクスッと微笑む。
「狭山さん。執事にとって一番の至福とは何でしょうか?」
「え?」
「この仕事をやっていてよかった。そう実感できる瞬間は、何でしょう」
「……それは」
「思い浮かんだ言葉を、声に出してください」
狭山の脳裏に、神白の顔が思い浮かぶ。
「……それは、お嬢様の、喜ぶ顔、とか」
「その通りでございます」
義徳は背を向けキッチンへ向かう。狭山もそれに続く。
「一番の幸福は、旦那様の、奥様の、お嬢様の、我が主の喜ぶ姿を見ること。そして主が従者でしかない私に感謝の言葉を述べていただけるその瞬間。その瞬間は、何事も上回ることができない、至福の時なのです」
立ち止まり狭山の方を向く。
「狭山さん。あなたは三つの間違いを起こしてしまいました。一つは、私的な理由でこの場を使おうとしたこと。次に相手の好みや趣向を知らず、自分を優先してしまったこと。最後は――」
義徳の鋭い視線が、狭山を射抜く。
「主の事を考えていなかったことです」
グサリと、心に銀の刃が突き刺さった気分だった。狭山の顔が青白くなる。あまりにも当然であり、あまりにも力強い言葉に圧倒されていた。
この人は自分の仕事に誇りを持っていることを、肌で感じた。それに比べて。
狭山は頭を下げた。それしかもうできなかったからだ。
「申し訳、ございませんでし、た」
言葉が震えていた。
たかがアルバイト、されど執事として活動しているのは事実。ここで真面目に相手と向き合わねば、自分はただのダメ人間になる。スマホを叩いて大欠伸をするだけの人間になってしまう。
それは、嫌だった。
誇らしげに自分の仕事を語る、義徳の顔に、泥を塗りたくない。そう思ったのだ。
「顔を上げてください、狭山さん」
肩に手を置く。狭山が顔を上げると、優し気な笑みを浮かべる紳士がそこにはいた。
「数々の非礼。さらに、戯言ばかり申してしまいました。お許しください」
「い、いえ! 戯言なんて思ってないです! 俺が全部、悪くて」
「いえいえ。そんなことはありません。理由はどうあれ自分の力を提示したかった。その向上心と度胸は馬鹿にはできません」
義徳は狭山の両肩を掴み、グイっと上に持ち上げる。背筋を伸ばされた狭山は相手を見つめる。
「お詫びと言ってはなんですが……美味しいコーヒーの淹れ方をお教えしましょう」
「……はい! よろしくお願いします」
「……ああ、そうそう」
義徳が胸に手を当て、クスッと笑う。
「私、コーヒーが大の苦手なのです」
「へ?」
「我慢してコーヒーを嗜んでおります。これ、内緒ですよ」
ふふふ、と笑う義徳を見て、狭山は破顔した。
☆☆☆
1階に降りると楽しげな声が聞こえた。男性二人。義徳と、狭山だ。
神白はワクワクとした気持ちを必死に抑えながらリビングに近づく。途中にあった姿見の前で足を止め、前髪を手櫛で梳く。寝癖無し、顔色よし。
両手で顔を挟み、顔をムニムニと動かす。ニヤけないように、入念に回す。
一度喉を鳴らして、神白はリビングに入った。
瞬間ふわりと、コーヒーの香りが鼻腔を擽った。
「狭山さん、お上手ですね」
「練習してきたんで!」
「なるほど。これだけ綺麗にできるのであれば、立派な物です」
コーヒーカップを片手に談笑する二人組。キッチン台にはコーヒーの器具が揃っている。
義徳の視線が神白を捉えた。カップを素早く、それでいて音を鳴らさず置くと、頭を下げる。狭山もそれを見て、慌てて頭を下げた。ガチャンと音を鳴らしながらカップを置いたのを見て、神白はクスリと笑う。
「二人でサボり中?」
「いえいえ。コーヒーの淹れ方と嗜み方をレクチャーしておりました」
義徳が顔を上げるタイミングで、狭山も顔を上げた。
ふわりと微笑んでいる神白を見て、狭山はクラクラした。私服姿というのもまた美しさに拍車がかかっている。中学の芋ジャージとか履いてたら親近感も湧くが、そんなことはなかった。
「コーヒー……苦手」
「お嬢様。大人の第一歩は、コーヒーが飲めることですよ」
「え」
狭山が声を上げて義徳を見た。
「なんですか、狭山さん」
「いえ。その通りだなと思いまして」
余計なことは言うまい。狭山は視線を切った。
神白が二人に近づき、ドリップされ容器の中に溜まっているコーヒーを見つめる。
「義則さんが作ったの? だったら別にいらな――」
「ここにいる狭山執事が作りました。初めてのコーヒーでございます」
「いる。欲しい」
バッと顔を上げ、義徳を睨むように見つめる。目を吊り上げてなお横顔が美しいと狭山は思った。
「全部ちょうだい」
「お嬢様。まずはカップを」
「容器のまま飲む」
「お嬢様」
神白の声は上ずっていた。学校では見られない神白の姿を見て、狭山はクスリと笑った。
その時だった。
リビング内にチャイム音が鳴り響いた。
「え!? なに!?」
狭山は慌てて神白と義徳に視線を向ける。
神白は苦虫を嚙み潰したような顔をし、義徳は口元を一瞬曲げた。
「狭山さん、行きましょう」
「ど、どこに?」
「玄関です」
義徳がネクタイを正す。
「奥様が、帰ってこられました」
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