第15話「幸福なことがあると不幸なことを考えてしまう」
フラフラとした足取りで、狭山はようやく自宅に帰ってきた。
「はぁぁあああ……」
手を洗いながらため息をつく。自室に戻ると鞄を放り投げ、ベッドにダイブした。
「はぁぁああああああ……」
布団に顔を埋め、魂が抜けていくようなため息をついた。
今日は最悪だった。狭山の脳裏に、女子たちの顔がよぎる。こちらを馬鹿にしたような笑みが、こびりついて離れない。下ろし立ての白いシャツにケチャップを思いっきりぶちまけられた気分だった。
「マジキッツ」
下手したらトラウマになるぞ。歯を噛み締めてスマートフォンを取り出す。
『今度相談に乗りますよ、狭山君』
画面に鹿島のメッセージが表示された。さきほどまでSNSで会話をしていた名残だ。
鹿島の言葉はありがたかった。何故こんないい奴が自分の友達なのだろうと、狭山は己を疑った。
そしてそんないい奴の友達である自分は、クラスの女子にすら名前を覚えられていない程度の存在。
真面目くんって。俺には名前があるのに。
あの女子の反応を見る限り悪気があったわけではないのだろう。多分、友達同士で行うような、気にも留めない冗談のような言葉だったのだろう。
「友達同士?」
頭に神白の笑顔が浮かぶ。満面というわけではないが、どこか儚く確かに可愛いあの笑み。
今日の反応で、ハッキリした。
自分は神白と関わっていいような人間ではないのだ。神白は殿上人。こっちは泥にまみれてカラスに穴を空けられたゴミ袋的存在。
もう忘れよう。今日のことは忘れて明日からはなるべく神白を視界に入れないようにしよう。それが己を守ることになる。
決意したその時、スマートフォンが振動した。一度ではなく何度も。
それが電話だと理解した狭山は不快感を表情に浮かべた。
「んんだようるせぇな」
画面を見た。朱雀院家と表示されている。義徳からだろう。明々後日の執事アルバイトの件だろうか。
こんな状態でバイトの話などできない。いっそ出ない方が、都合がいいのではないか。
悩んでいる間も振動し続けているスマートフォンに根負けし、狭山は画面に指を滑らせる。
「はい」
不機嫌さを微塵も隠さず声を吐き出した。
『……もしもし? 狭山くん?』
声が聞こえたその瞬間、狭山の目はカッと見開かれた。
「え、か、神白……さん!?」
『うん。こんばんは』
「こ、こ、こんばん、は!!」
狭山はベッドの上で正座した。
『ごめんね、突然電話して』
「ああ、いえいえ、大丈夫ですはい!!」
『……また敬語』
クス、と。相手の笑い声が聞こえた。これだけで狭山の頭は真っ白になりそうだった。あの氷柱のような冷たい表情と態度のお嬢様が、微笑みを浮かべているのだ。これが興奮せずにいられようか。
「えへへ……」
『狭山くん?』
「うえぇあ!? すいません、ちょっと涎が!! あぶなっ!!」
『よ、よだれ?』
あまりの尊さに脳味噌が動作不良を起こしたらしい。
狭山は口元を拭う。
「な、何の用で……何の用? あ、あれ? 明々後日の執事アルバイト?」
『うん、それがひとつ。来る?』
「い、行くよ!! 行く! 今日もいっぱい執事について調べてたんだ。次からの俺はもっと役立つと、思う。多分、きっと、メイビー」
『全部希望的観測だね』
「期待はしないでくれ……」
『うん。期待するね』
「聞いてる!? 話!」
神白の声が、楽しげに聞こえる。これは自分の耳が都合よく変換しているのだろうか。
それでも構わなかった。あの神代綾香と電話している。それだけで都合のいい展開なのだから。
『義徳さんがね。次は狭山くんにコーヒーの淹れ方を教えるみたいだから』
「へ、へ~……」
『予習しておくといいかも』
「義徳さんがそう言ってたの?」
『ううん。私からの勝手なアドバイス。義徳さんには、しー、で』
何その可愛い言葉。
狭山は目を閉じて恍惚とした表情を浮かべる。瞼の裏に、唇の前に人差し指を立てウインクする神白を妄想で作り出す。
「うへ、へへ、へへへ」
『さ、狭山くん? どうしたの?』
「にゃんでもないでしゅ……」
呂律も回らなくなった狭山は、ベッドの上で仰向けになる。
「伝えたかったことって、それだけ?」
『ううん。もう一つある。あのね』
神白が息を呑む声が聞こえた。
『……言っておいたから』
「……何を?」
『狭山くんの、名前。あの子たちに』
頭に女子たちの薄ら笑いが思い浮かんでくる。
「え?」
『真面目くんって言われた時の狭山くん、凄い悲しそうな顔していたから』
「ま、マジで」
『だから言っておいた。今度から、そんな風に呼ばないでって……』
「あ、あはは……マジかよ、ありがとう」
乾いた笑い声をあげた。まさか神白に庇われるとは、夢にも思わなかった。
無性に胸が熱くなった。
「ありがとう、神白さん」
『ううん。こっちこそ、ごめん。ねぇ、狭山くん』
「はい?」
『今度うちのアルバイトに来た時、終わってからでいいから、アカウント教えて』
「……え?」
『スマートフォンでやり取りした方が、お互いに都合よさそうだし』
「か、神し……」
『あ……』
言いかけた時、神白の声が一瞬遠くなった。次いで遠くから車の駆動音が微かに聞こえてきた。
『ごめんね、もう切るから』
「え、え、神し」
『土曜日。待ってるから。バイバイ』
通話が切られた。
呆然と目を開いていた狭山は、動揺する眼でスマートフォンの画面を見つめる。そして震える指先で画面を操作し、鹿島に連絡を入れた。
『はい、もしもし』
「俺多分今週死ぬわ」
『え!!!???』
直後、狭山は笑い声を上げた。
頭の中はもう、神白の姿でいっぱいだった。
――今週の土曜日まで一気に時間が飛べばいいのに。
狭山はそんな思いを胸に、鹿島にどう自慢しようか悩みながらスマートフォンを耳元に近づけた。
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