父親
水曜日。
仕事を終えて、夕方……。
今日は何もなく無事に一日を終えることが出来るだろうか……。
壁の向こうの住民を刺激することなく静かに過ごせることが出来るだろうか……。
できれば逃げてしまいたい。
こんな恐ろしい時間を赤ちゃんと二人きりで過ごすなんて……。
壁を叩かれた日の次の日は朝の出勤が怖い。
隣の住民と鉢合わせしたらどうしよう。
何か恐ろしいことをされたらどうしよう。
夕凪の世話を終え、ため息をつきながら自分の食事を食べようとしたら、携帯電話のバイブレーションが震えたのであたしは電話に出た。
『もしもし……』
『春海か……』
父親からだった。
自分からあたしの携帯に電話しておいて『春海か?』はないだろう。
もともと……あたしは父親とはほとんど話さなくなっていた。
サラリーマンでもある父親は多くの男親と同じく、家であまり話をしない。
だから一緒に住んではいたものの会話もないし、なにを話していいか分からない。いつからこんな風になってしまったのだろうか。
子供の頃は父親に甘えて、よく公園で一緒に遊んでもらった。
小学校に上がって、友達が出来て……いつも間にやら親よりも友達の言うことが絶対になっていった。
学校と友達が世界のすべてだった。
あたしの目の前から両親の存在がだんだん薄くなっていった。
『どうしたの?』
『いや……何もないんだけどな……』
何もないと言われると無言になってしまう。
気まずいというのはあるのかもしれない。
高学歴な父親はテストでそこそこいい点数をとってくる娘に期待していたに違いないから。そしてその娘がどこ馬の骨とも分からない男と付き合い、子供を作ってしまい……その子供を産み、高校も中退してしまう。
期待していた分、父親の怒りもものすごかった。
夕凪を産むと言って一番反対したのは父親だった。
『産んでどうする?』『自分で育てられるだけの力はお前にはないだろ!』『理想ばかり言うのではなく現実を見ろ』
本当にいろいろ言われた……。
でもあたしは言うことを聞かなかった。
自分で何とかできないのは分かっていたくせに、つい『あたし一人で育てる!!』と言ってしまったのだ。
もちろんそんなことはできるわけがない。
あんなに反対して、ものすごい剣幕で怒鳴っていた父親。
しかしそれでも父親はお産のためのお金を出してくれた。
母親はお産に必要なものを教えてくれたりして力を貸してくれた。
あたしはそんな両親を尻目に意地を張り続けていた。
自分でやらかしたことは自分で責任をとる。
そんな風に思っていた。
でも……。
一人でなんでもできるわけがないのだ。
『夕凪……今寝てるよ』
『そうか。元気か……』
『うん』
『困ったことないか……』
照れ隠しに夕凪の話をした。
少し前なら、用事がないと言われたら『あ……そう。』とでも言って適当に電話を切っていた。
しかし、なんとなくそれではいけない気がした。
大人になった……ではなく成長し、精神的に大きくなった自分は大人になったと勘違いしていただけなのだ。両親は反対してもあたしが決めたことを尊重し助けてくれていたのにあたしは意地を張っていた。
本当にあたしはバカだ……。
父親の声を聴いてあたしは張りつめていたものが切れそうになり、思わず涙がこぼれた。
精神的にもギリギリだったのかもしれない。
『隣の人が……』
『隣?』
『うん。』
『何かあったのか?』
『……壁を叩いて……夕凪が泣くたびに……毎日……怖くて……』
自分でも何を言っているか分からない。
気が付けば涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。声もうわずってうまく出ない。
『落ち着け。大丈夫だから』
『うん』
『何か……されたのか?』
『壁をごんごんって叩かれるだけ……』
『そうか……そういえば隣には挨拶に行ってないな……』
『え?』
夕凪の泣き声にあんな反応をする人間である。
刺激したら何をしてくるか分からない。
そんな人間とはなるべく関わりたくない。
『大丈夫だ。お父さんも一緒に行くから安心しなさい。それに大家さんは私の恩師だから』