人間じゃない少女が神の司祭の愛で救われるけれども悲しい結末になる話【人外少女シリーズ】
それは優しい声だった。低い、落ち着いた、とても懐かしい声だった。
(アイジャネフ……アイジャネフ……聞こえていますか? あなたは生きていていいんですよ)
(うるせーよ! あたしなんかが生きていていいわけねーだろ! 人食いのバケモノなんだぞ!?)
それを聞いて声は優しく笑った。成熟した初老の男の声。彼女にとってとても大切な人の……。そしてこう問いかけた。
(人を食べたことがあるんですか?)
アイジャネフは一瞬答えに窮したが、すぐに、
(いや、ねーよ)
と否定した。男の声はまた笑った。
(ほら、あなたは罪を犯していません。周りに人たちが勝手なことを言っているだけでしょう? もし仮に、罪を犯していても、許されます)
(ケッ、えらそーに。一体この世の誰にあたしを許す権利があるってんだよ。オメーのカミサマがそう言ったのかよ)
(ええ、万物をお作りになられた神はその被造物によって、伝えられているのです。この世に生きている者全て、この世に生きていていいのだと。だって、わざわざ神様がお作りになられて、この世にこうして生きているのですから。それだけで生きていていいと、神様が言ってくれていることになるんですよ)
(ケッ)
そこまでがアイジャネフが見た夢だった。彼女が寝ていたのは、思い出の場所、教会の、その屋根の上。目を覚ました彼女は泣いていた。カマキリの鎌で顔を拭う。懐かしい夢。
「クソ……今更こんな夢を……」
彼女の体はカマキリだった。本物のカマキリと比べて足が多かったが、全体的なフォルムはカマキリ。
「醜いな……」
目を覚まして自分がカマキリと人間の女の子の合いの子のアイジャネフであることを知るたびに、彼女は自己嫌悪に陥った。
人間の上半身からカマキリの体が生えているのか、カマキリの体から人間の上半身が生えているのか。わからなかった。不自然な合成物。
人間の部分も完全な人間ではなく、口は醜く裂け、触覚が無駄に美しいサラサラした髪の中から飛び出ている。
この姿を肯定してくれたのは、あの司祭のニールしかいなかった。
一年前も、彼女は教会の屋根をねぐらにしていた。そして上からぼーっと下の様子を伺っては、気まぐれに悪戯をするのだ。
※※※※※
一年前の話をしよう。
その日もそうしていると、何やらうるさい声が近づいてくる。
「お父さん! なんで殴るんだよう」
「このクソガキ! 親の言うことを聞きなさい! あんまり悪いことしてるとあのカマキリお化けが食べにくるぞ! 食べちゃうぞってな!」
「そんなの怖くないよ!」
村のとある親子だった。適当なからかい相手ではないか。アイジャネフはニヤっと笑うと、大きさの割に軽い体をふわりと翻し、教会の下へと降り立った。そして耳まで裂けた口をクアッっと開いてこう言った。
「 食 べ ち ゃ う ぞ 」
「うわあああああああ」
「ぎゃあああああああ」
親子は一目散に逃げていった。手に抱えていた荷物が落とし物になって辺りに散らばった。
「キャハハハハ! さてと、食べ物落としてったよなあ……」
地面の転がったパンをカマキリの鎌の腕で拾おうとする。
「こら、アイジャネフ」
背後からかけられた声に彼女はついビクッと飛び上がってしまった。
振り替えると、そこにいたのは……
「へへ、司祭様……ど、どうしたんだい? 別に殺しはしちゃいねーよ」
「まったく、食べ物が欲しいときは私に言いなさいと言っているでしょう」
村の司祭のニールだった。五十代半ばで、白くなりかけの頭に司祭の帽子を被っている。その色は高位の司祭であることを示している。
辺境の村に派遣されている割にはこの階位。中央にいたなら数万の信者をまとめられるはずのものだ。
彼に睨まれれば人外のアイジャネフといえど調子には乗れない。彼女は裂けた口に精一杯の愛想笑いを浮かべて、
「へへへ、焼きたてのパンが欲しくてさ……。ちょうどパン屋の親子が通ったから……」
ニールはため息をついた。
この二人の師弟のような、親子のような関係は、十年前、ニールがこの村に派遣されてきてから続いている。
前任の司祭はアイジャネフに散々脅かされて中央に逃げ帰ってしまった。
しかしこのニールは一筋縄ではいかなかった。まず彼はアイジャネフにこう言った。
「あなたは村の人から『人食い』と呼ばれていますが、それは本当ですか?」
「へっへへ、お前も食ってやろうか?」
「本当なのですか?」
「………………いいや」
それを聞いてまだそれほどの歳ではなかったニールは、その年齢の割にはシワの多い顔にくしゃっと笑みを浮かべて、
「そうだろうと思っていました。まあ、罪を犯していても、許されますが」
「あっそう」
それ以来、なにかとニールはアイジャネフの世話を焼いた。
昼は食事の面倒を見、夜は説法を聞かせた。しかし、アイジャネフと村人たちの間の蔑まれ疎まれ憎み合う関係は改善しなかった。
ニールは村人の側にも聖典に出てくるたとえ話を通じてアイジャネフとの関係をとりなそうと色々説法をしてはみたが、一向に効果がなかった。
そんなこんなで、十年も経ってしまった。
「やれやれ、なかなか難しいのですかね」
そう言ってこの村にきてから白くなった頭をかくニール。それでも諦めたりはしなかった。全ては村の円満な平和のために……。彼にとっては、村人が恐れる「人食いのバケモノ」アイジャネフも、どこの村にもいる悪戯っ子か何かにしか見えなかった。
しかし、ある時を境に、アイジャネフはニールを避けるようになった。
ニールは様子が変わったアイジャネフを訝しんだ。ずっと教会の屋根で付かず離れず、ニールの様子を窺いつつ、目が合うとさっと尖塔の影に隠れてしまう。
そんなことが続いたある日の夜、教会でニールが神に祈りを捧げている時である。
教会の扉が開く音がした。ひざまづいてそちらに背を向けていた彼は敢えて振り返ったりしなかった。
背中に熱い吐息を感じた。
「どうかしたのですか?」
ニールの優しい声に、吐息の主、アイジャネフは飛び退った。
「あ……いや……あの……」
困惑の声にニールもまた困惑し、振り返った。彼の目に入ったアイジャネフの姿は怯えているように見えた。
「アイジャネフ……」
「お前を食べたくて仕方なくなっちまったんだ!!」
締め上げられて絞り出したような声だった。
無論、ニールは驚く。続けて質問する。何故か、などという愚問は発さない。
「苦しいのですか?」
「うん、苦しい……なんだろ、なんでだろうな……」
アイジャネフは両手の鎌で頭を覆って縮こまった。ニールは恐れることなく近づいていく。
「もし」
穏やかに、努めて穏やかに、ニールは声をかける。
「もし私を食べても、あなたは、許されますよ」
「誰に許されるんだ?」
アイジャネフは震えながら言った。目線はほとんど睨むようにニールへと注がれている。その問いにこの高位の司祭は優しい笑顔で答える。
「神が……許してくれます」
アイジャネフはガバッと起き上がった。襲いかかるように。
「あのな!? あんたの神様だけが許してくれても、他の奴許してくれないなら無意味なんだよ!!」
ニールは微動だにしない。
「他の奴とは?」
「この世の生きとし生ける者、全て」
「なるほど」
ニールは目を閉じた。数秒のちに、また開く。清々しい笑顔がそこにあった。
「あなたは、私一人で満足してくれますか?」
アイジャネフは一瞬絶句する。そして震える声でこう言った。
「多分、できる。いや、絶対できる。おそらくこれは……その……」
意を決したように、数瞬、溜めてから、
「これは……好きなやつしか食いたくならない本能によるものだから……」
「そうでしたか……」
胸の内を吐露してしまったアイジャネフは涙を流した。
「私が死ねば丸くおさまるんだ!!」
「それはいけませんよ。生き物は、生きてるだけで素晴らしいんです……いいでしょう。あなたの命の糧になりましょう。……私がいなくなっても、村の人々を助けてあげてください」
「いやだ!村の奴らはあたしを怖がってる……いや、憎んでるんだ!」
「……逃げてもいいんですよ。あなたを呪う人たちの所で頑張る必要はありません」
「ああ! もうアタシを苦しめないでくれ!! これ以上優しい言葉で……その優しい声で、愛情で!! あたしを苦しめないでくれ……」
ニールはアイジャネフの頭に手を置いた。髪とその下の地肌の感触だけが、人間のそれだった。蚊の鳴くような声が途切れることなく聞こえる。
「あたしを罰してくれ……生きていていいなんて言わないでくれ……」
「アイジャネフ」
少しトーンが違った。アイジャネフは顔を上げる。ニールと目が合う。
「もし……人や動物が飢えを満たすために他の生き物の肉や果実を奪うことを神が許さなかったとしたら、どう思いますか?」
「え? そりゃあ……ひどい意地悪な神様もいたもんだなって思うよ?」
ニールはうなづく。
「そうでしょう。しかしそれは許されている、許されているんです……。あなたは、いや、すべての生き物は、その者が持つ衝動に従うことを許されている……なぜなら、それを回避することができないからです。選べ、と聖典では言われます。人は罪を犯すことと犯さないことを選ぶことができると。しかし、本当にそうでしょうか」
「じゃ、じゃあ衝動のままに殺しまくってもいいってのかよ!?」
ニールは首を横に振った。
「貴方だけが、衝動に身を任せることに耐え忍び、苦しむ必要はないのです。もし私が神なら、あなたの衝動を取り去ってあげられますが、そうではない。もし自由に人が自分のどうしようもない衝動を取り去ったり元に戻したりできる世の中だとすれば、取り去らないことは罪かもしれない。しかし、そんなことは現実にはできない。だとするなら、いいのです。とりわけ、私一人を犠牲にして済む衝動なら、ね。それは、許されているのですよ……わかりますか? この世の誰がどんなことを言って批判しようが、神に許されている。いや、神が、という言い方すら必要ないかもしれない。世界から、全ての存在から、許されているのですよ……だって、この世の誰も、あなたを本当の意味で救うことは出来ないのですから……だから、非難する筋合いもないんです」
アイジャネフはキョトンとしていた。その話の全ては理解できなかったが、なんらかの救いを感じ取ることができた。少なくとも、ニールが彼女自身を救おうとしていることが。
「……なんだか、司祭が言うには危険な考え方の気がする。聖典にはそんなこと書いてないんだろ?」
ニールは笑った。
「この説法は、ここだけの秘密ですよ。二人だけの、秘密です……」
「ああ、ありがとう。ありがとう……」
※※※※※
そして、今に至る。
彼女はまどろみの中にいた。体力がもうないのだ。なぜないのかと言えば……。
「騎士様! あれです! 教会の屋根です!」
村長がアイジャネフを指差した。
「あいつが屋根に卵を産んでいるんです! 司祭様を食べたんだ! 卵が孵ったらどうなるか……とにかく対峙してくだせい!」
屋根には、家一軒ほどもある巨大な卵嚢が乗っていた。
そう、アイジャネフはニール司祭を食べた後、卵を身篭ったのだ。それは食べることによる交配だった。そして、卵を孵化させたいという強烈な衝動に身を任せた結果、教会の屋根に陣取るという選択を彼女はした。
「フフ、フフ……司祭様よぉ……これも、この衝動も許されるのかい?」
卵が孵りつつあった。そして、その中から伝わってくる、殺戮の意思がアイジャネフにはわかった。
騎士の一人が叫ぶ。
「いかん! 卵がかえるぞ! 村長! なぜ焼き払わなかった!!」
「へ、へへ……あの教会、燃やしちまったら、もう村への教皇様からの援助は……」
「愚かな!!」
その時、卵から無数のカマキリのモンスターが現れた。それは騎士団をあっけなく打ち破り、村人を皆殺しにし、近隣の村や街を襲った。
卵を孵して、役目を終え、死に行くアイジャネフの最後の泣き声が、聞こえた気がした。