Aの頂点
仕事も片付いて、せっかく片付けた家にまた溢れたはなむけのプレゼントも片付いて、無職になった。一ヶ月滞在予定のホテルは、二人分の金額を払いながら、一週間経ってもミシェルがいない。
今、たぶん私は人生で一番幸せに近い状態だ。やりたくないことをやらなくてよくて、会いたくないものに会わなくていい。でもたぶん、ミシェルには会いたい。
ミシェルのためにと思うせいで彼女を必要とするのか、意味もなく理由もなく目的もなくただ会いたいだけなのかわからない、春なのに。
彼女が来たら、旅に出る話をふくらませよう。どこへ行こうとか、何を見てみたいとか、話して、笑って。言葉が通じないことも気にせず世界を股にかけて話そう。あれもしたいこれもしたいと、尽きることなく、当たり障りなく、話して、眠ろう。二人で手を繋いで、世界にただ二人でいるように。
たとえミシェルが辛くても。ミシェルが痛みをひとりで耐えていても。私が生きているのだからあなたも生きていてと、強いるように。こい願うように。
ミシェルがいない。来ない。
お風呂に浸かって沈もうとしても、ベッドで居たたまれずにゴロゴロ転がって居場所を探しても、毎日届けられる新聞の朝刊を読むわけでもなく眺めていても。いない。
指先にカミソリを滑らせて、血がぷくりと出てくるのを待った。腕を切るより、指先のほうが痛まない。血も少ないけれども。
舐めてみる。そういえばこんな味だったと思い出した。
ミシェルがいる風景を思い描く。思い描けない。
「悪い、しくじった」
旅に出る準備が出来たらここへ来てねとミシェルに言っておいたのに、夜明けの窓際に現れたのは呼びもしないハンターだった。
ぽたりと血が落ちて、はっとする。ぽたりぽたりと血が落ちる前に、ハンターの足元にバスタオルを投げた。返り血にまみれたような姿のハンターの腕を引いて、バスルームに押し込んだ。着衣のままシャワーを浴びさせて、洗い場に流れていく血や水の混ざりあったものを見る。
「何があったの」
「ごめん」
「ごめんじゃなくて」
ハンターは謝った。謝っていた。嫌な予感だけ私にさせる。
「はじまりの男の話は、したな。もう、力は無くて、ひとに尻拭いをさせやがる男の……」
「あなた」
もしかして。
「ああ……そうだ。限界だ。もう終わりだ。誰も救えない。もはやこの手に力は無い。謝らなければならないのは、それに気づいたのは、殺せなかったからだ」
「……ミシェルはどこに?」
「知らない。死に損ないが行く場所なんか知らない」
無責任な響きの言葉は、ハンターの口からひどく泣きそうな声で吐き出された。




