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ジルの幻

 歩道橋を欄干寄りに歩く。下が見えるわけではなかったし、落ちられるわけでもなかった。車が通る。落ちれば、悪い。巻き込む誰かを可哀想と思い、私は死ぬすべを見つけられず生きる。

 家にある荷物を少しずつ整理している。捨てたり、売ったり、譲ったり。思い出など何もなくて、情の浅さを思い知る。ミシェルと旅に出ようというのも、自分の意思なのか怪しむくらい。


「あっ……おい!」


 初恋がどうとか、昔こんなことがあったとか、そんなことを語る人たちの頭の中がどうなっているのか不思議だ。本当に覚えているのだろうか。不思議だ。


「いや立ち止まれよ!」


 私じゃないだろうなと思ったのに腕を捕まれて、どうやら私が呼ばれていたらしいと足を止めた。振り向くと知った顔だ。もう少し長くしゃべってくれれば、聞いた声だと気づいたかもしれない。


「気づかなくてごめん、だけど、名前呼べばいいのに」


「絶対呼ばん」


「電話番号の登録とかどうしてるの? してないの?」


「……Aって」


「イニシャルですらない」


 私のことが嫌いだったのだろうかこの男、と見る。たぶん違う。昔から違う、逆に好かれていたと思っていた。いやだからこそか、好意を持っていた同級生が、自分の父親の愛人その三とかになっていたら、反転して顔も見たくなくなるようなこともある。


 それでも、見たところ、悪意も敵意も感じない。父親が死んだからといって、その遺産から愛人を追い出したりしないあたり、そういえば根本的にイイヤツだったものと思い出させる。


「出ていくって本当か?」


「うん。いつまでも甘えるわけにはいかないし」


「俺は別に今のままでいいと思ってた。ゲスな話、俺が代わりになれたらいいとすら思った」


「妻子持ちが何を言う。あの人は、あなたの父親は、そりゃあ何人も女性を囲っていたけど、それは奥さまが亡くなった後のことで、それに結局、再婚しなかった」


「……親父の人を見る目、尊敬するよ。愛人……いや、恋人だった人たち誰も、こっちに面倒かけてこない。家出てないのも、お前とあと一人だけで、その人も子どもが大学入るからそろそろ引っ越しますって言ってた。つーかあんなに愛人いたことすら周りに気づかせなかったのが頭おかしい」


 たしかに、あっちこっち顔出してまめだなあとは思っていた。お葬式に集まった顔ぶれを見て思っていたより多かったことに驚いた。美しい人ばかりだった。


「出ていくよ」


「もう、すぐに?」


「うん」


 笑顔を作って見せた。

 ミシェルのためじゃない。どのみち、決別は必要だった。一緒に行ける誰かがいなくても、私はあの部屋から出なければならなかった。いつか、いつかは。

 捕まれていた腕が放される。


「絶対に、行くのか」


「うん。心配しないで」


 もう大丈夫、心配しないで。死にたいと思うことはあってもきっと私は死なない。ミシェルを置いて死なない。ミシェルを殺してもあげない。どれほど苦しいのかなんて知らない。終わらない痛みから、解放なんてしてあげない。

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