恐怖の館? ううん、あたしの家だよ。(三十と一夜の短篇第32回)
あたしの家には、絶対に開けてはいけない扉がある。
いつもは優しいママも、その扉に近付いたときだけは、鬼のような表情をしてあたしを睨んでくるんだ。脱獄を試みる凶悪犯を見張るように、あたしの一挙一動をよぉ~く見るんだ。
「そこは絶対に開けちゃあいけないのよ。その扉は、恐ろしいところに繋がっているのだからね。そこを開けてしまったらば、引き込まれてしまって、もう元の世界には戻れなくなってしまうのよ」
ママはそうやって言っていたの。
「開けちゃあダメなのよ。絶対よ?」
そのときのママの声色が、あたしには忘れられそうにない。
あんなに怖いママをあたしは知らないもの。
あたしにはパパがいない。
いたんだろうけども、少なくともあたしはパパのことは知らない。
そしてママだって話してくれないの。
「ねえ、ママ、どうしてあたしにはパパがいないの?」
「……聞きたい? ほんとに聞いてもいいの? 大丈夫なの?」
気になってしまったものだから、禁じられたわけじゃあないけれど聞いてはいけないと思っていたその内容を、ついあたしは訊いてしまっていたの。
あの扉の前に立つとき、もしくはあの扉のことを話すときのように、ママはとっても怖い顔をして、とっても冷たい声をした。
最初から禁忌のにおいはしていた。何も教わっていないうちから、ずっと。
だからあたしの中では、あの扉のことと、パパのこととは、同じように考えられるようになっていた。
優しいママを怖く変えちゃう、知ってはいけないことなのだ。
「……ママ、……ママ…………? ねえママ、どこにいるの?」
とある真夜中、ふと目が覚めてしまって、ゾッとしてママを呼んだ。
隣に寝ているはずだのに、その影が見えもしなかったものだから、どこにいるんだろうとママを呼んだ。
なんだか、堪らなく嫌な予感がしたんだ。
「どうしていないの? どうしてどこにもいないの?」
ちょうどママも目覚めちゃって、トイレにでも行っているんだと思ったけれど、そういうわけでもないみたい。
電気をつけなくても廊下が明るいくらいの月明かりは、青白くて、真っ暗闇よりもかえって気味が悪いみたいだった。
「ママ、ママ……」
不安で不安で、理由はわからないけど不安だったから、ママのことを呼んだの。
でも、いないの。
”カタカタカタカタカタカタ”
山でもないのにあたしの声が山彦して、冷たい月光の沈黙であり続けていたのに、唐突におかしな音が鳴り響いてきた。
”カタカタカタカタカタカタカタ”
何の音? 何の音なの?
ねえママ、どこにいるの。教えて。
これは何の音なのさ。どこからしているのさ。教えて。
ママ、これはなあに?
これは何の音なの?
”カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ”
音に導かれるようにして、あたしはいつの間にかあの扉の前にいた。
ここはだめ。だめなの。ぜったいにだめ。
だけど、手を触れてしまう。手を、かけてしまって……すぐに手を引っ込める。
だめ。ここだけは、ぜったいにだめ。
どうして? だってママが怒るから。
でもママは、今どこにいるの? どこにもママはいないじゃないか。
気になってるんでしょ? 気になってるんだよ。だったら、だったらちょっとくらい、覗くくらい。
入らないから、それだったらいいんじゃないの?
だって変な音がするんだもん。
だれかが間違えて入っちゃったのかもしれないから、注意しなくちゃ。ママに怒られちゃうよ、って。
そう、あたしは注意してあげるの。
だからあたしは悪くない。ママ、あたしは悪い子じゃないよね。
本能に任せて、手をかけて、それから扉を開けたの。ちょっとだけ、少しだけ。
覗き込んでみたのだけど、特になんもなかった。
ただの部屋じゃないの。この部屋がなんだっていうの?
後ろを見ても、どこを見ても、やっぱりママはいない。
ばれるわけないもん。それに、これくらいで何かあるってわけでもないでしょ。
だったらそれでいいよね。
罪悪感はないではないけど、でも怖いものなんてなかったし、ママは何をそんなに言ってたのってくらい。
大丈夫。ただの部屋だったもん。普通の部屋だったもん。
”ビシャーン!!”
窓の外を大きな光が包み込み、耳を劈く轟音があった。
雷だ。
月光が差し込んでたってことは、さっきまでは晴れてたんじゃないの?
変な音がカタカタと響いてたのに、大雨の音、雷の音、どうして?
ママ。ママ。ママ、あたし、わかんないよ。
怖くってあたしは部屋に帰った。
ずっとそこにいたかのように、変わらないでママは寝ていた。
さっきはいなかったのに、それだって気のせいのように、ママは眠っていた。
でもどっちにしても、ママが寝ていたんだとしたら尚更、ばれる理由なんてないもんね。
それから月が出ていたことなんてすっかり忘れてあたしは眠った。
「おはよう」
「おはよ、ママ」
何にもなかった。特に何にもなくて、そのまんまいつものまんまだった。
おはようはおはよう、いつもの優しいママのおはよう。
怖いママじゃない。優しいママ。いつものおはよう。
「ママ、昨日の夜、どこかに行ってなかった?」
あたしが訊いてみると、
「どういうこと? ずっと隣に寝ていたでしょう?」
ママはそうやって答えるの。
夢、だったのかな。
そうだ、ただの夢だったんだね、きっと。
じゃああの部屋はやっぱり、普通の部屋なんかじゃなかったんだ。
そうだったらいいなって、あたしが夢を見ただけで。
だけどその日の夜も、真夜中に目が覚めた。
昨日よりも近くで聞こえる。
”カタカタカタカカタカタカタカタカタカタカタカタタカタ”
え、何かが違う?
リズムが少し、違っている。
”カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ”
今度は何? 全然違う。
違う、全然違うじゃないか。
近づいてきて、耳元で聞こえてきて、こんなんじゃもう眠れないよ。
隣を見たら、ママはそこで寝てはいないの。
「ママ、ママ、どこにいるの? ねえ、どうしていなくなってしまうの? ママ、こわいよ、いやだよ」
あたしがどれだけ訴えても、だれにも声は届かないの。
それだけじゃなくって、音があたしの声を消してしまうの。
”カカカカタカタタタタタカカタタカタタカタタカカカタタカタタタタタタカタ”
うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさい!
こんなんじゃ眠れないよ、もう!
昨日みたくママを探して、不安で不安でならないのではなくて、今夜は注意をしてやろうと思って強い気持ちだった。
だってね、もうあの扉もあんまり怖くなかったの。
音が、なんでだか昨日ほどは怖くないの。
慣れちゃってるわけはないんだけど、怖くなくなってるの。親近感っていうのかな? それが沸いてるくらいなんだ。
だれなの? ねえ、だれなの?
「ママなの?」
「そうよ。約束を守れない悪い子に、お仕置きをするの」
問いかけに、初めて答えがあった。
どういう、こと?
ママの声をしたあなたはだあれ?
「カカカタカカタカタタタカカタカタカタカタカタカタタタカタカカカカカカ」
ママの声でさっきまで聞こえていた音が引き継がれる。
それは、なんなの?
だけど怖くないのが不思議。
ママだからなの? 怖いママじゃなくて、優しいママの声。だからなの?
昨日ほどもともと怖くなかったんだけど、その程度じゃないんだよ。
「ママ。ママ。ママなんだね」
「そうよ。約束を守れない悪い子に、お仕置きをするの」
その声に吸い込まれるようにして、昨晩と同様にあたしはあの扉を開けた。
ううん、それどころじゃないね、思いっきり開けた。
「ママっ!」
「……マ、マ?」
”カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ”
”タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ”